笠原照重
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時代 | 戦国時代(室町時代後期)- 安土桃山時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 天正9年12月19日(1582年1月13日) |
改名 | 千松(幼名)→ 照重 → 全罷(法名) |
別名 | 平左衛門 |
主君 | 北条氏康 → 氏政 |
氏族 | 藤姓笠原氏 |
父母 | 父:笠原康勝、母:不詳 |
兄弟 | 義兄:笠原政晴(実兄とする説や他の笠原家を継いだ人物とする説有り) |
子 | 重政 |
生涯
後北条氏の家臣で小机衆の一人であり、武蔵小机師岡と西郡柳下で108貫文と御蔵島20貫文を給されていた[1]。
天正9年(1581年)12月19日、武田勝頼に内通した戸倉城主・笠原政晴に攻められ伊豆戸倉で討ち死にした[1]。
子孫
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嫡子の笠原重政は後に徳川氏に属して天正19年(1591年)都筑郡台村を領し、子孫は200石の旗本として続いた。
脚注
参考文献
- 阿部猛; 西村圭子編 『戦国人名事典』(コンパクト版) 新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9。
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