風魔
風魔
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風魔(かざま/ふうま)、風摩/風广は、三浦浄心の『北条五代記』において、北条氏直に扶持され、天正9年(1581年)の「黄瀬川の戦い」で敵方の武田の陣に夜討ちをする集団を率いた乱波として紹介されている人物。後北条氏の発給文書などに名前のみえる「風間出羽守」や、『関八州古戦録』などに名前のみえる「風間孫右衛門」はそのモデルとみられている。
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- ^ 写本、内閣文庫本
- ^ 「風麿」表記としている例もある。推定文化9年(1812年)頃成立の『三浦郡神社寺院民家戸数並古城旧跡』の林村 狐塚の項にある北条高時の頃の強盗の話に、「乱波風麿(らっぱかざまろ)」の名がみえる(翻刻:『三浦古文化』第4号、京浜急行電鉄株式会社 三浦古文化研究会、1968年5月、81-118頁の101頁)。成立時期については、高橋恭一「『相州三浦郡神社寺院民家戸数并古城旧跡』について・・・・・三浦古蹟集」(同書77-78頁)を参照。
- ^ 表に掲げたほかに1906年の芳賀矢一(校訂)『慶長見聞集』(袖珍名著文庫、冨山房)の翻刻が刊行されているが、抄録であり、7巻「関八州盗人狩の事」が収載されていない。
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- ^ 『岩槻市史 古代・中世史料編I 古文書史料(下)』岩槻市役所、1983年、182頁、No.477
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- ^ 523頁
- ^ 黒田基樹(編)『北条氏年表』高志書院、2013年、137頁
- ^ 巻203 埼玉郡14 向川辺領 砂原村、巻203 埼玉郡 5 越ヶ谷領 砂原村。ほかに、巻23 葛飾郡 4 西葛西領 本田筋にも「砂原村」がある。
- ^ 近藤瓶城(校訂)「関八州古戦録」近藤瓶城(編)『改定 史籍集覧 第五冊』近藤出版部、1900年(1925年再版)、187-188頁
- ^ 中丸和伯(校注)『関八州古戦録』〈第2期戦国史料叢書15〉人物往来社、1967年、262-263頁
- ^ 群馬県令写、請求番号4141.30-1、巻14、コマ43-「多賀谷政経湯田城を乗取事」
- ^ 『関東古戦録』昌平坂学問所旧蔵本、請求番号168-0347、第5冊、コマ18- 巻第10 「多賀谷政経乗捕湯田砦事」
- ^ 『水海道市史 上巻 第三編』1983年、289-291頁
- ^ 水海道市 前掲書 346頁
- ^ 古澤一巳「多賀谷氏家伝の伝来と異同」茨城地方史研究会『茨城史林』第38号(筑波書林、2014年6月、25-53頁)32頁
- ^ 「多賀谷家譜」『下妻市史料 古代・中世編』1996年、271-281頁。元禄家伝文書の『多賀谷氏由緒書』には多賀谷氏の系図と家譜が含まれており、『下妻市史料』や『関城町史 史料編Ⅲ 中世関係史料』(1985年、675-685頁)は、このうちの家譜を「多賀谷家譜」と呼んでいるが、本文中の呼称は古澤前掲書27頁に準じて『多賀谷氏由緒書』とした。
- ^ 茨城県立歴史館、静嘉堂文庫蔵色川三中旧蔵書No.191
- ^ 『結城市史 第1巻 古代中世史料編』1977年、714-722頁(東京大学史料編纂所架蔵本)
- ^ 『多賀谷記』静嘉堂文庫本(茨城県立歴史館、静嘉堂文庫蔵色川三中旧蔵書No.160)
- ^ 国立公文書館蔵本、請求番号155-0263
- ^ 典拠については注に「南軍(北条軍)退去普門寺過去帳亦有之」とある。
- ^ a b 『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.1239、217-218頁
- ^ 『邦訳日葡辞書』121頁左段
- ^ 『邦訳日葡辞書』73頁左段
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- ^ 『邦訳日葡辞書』190頁右段
- ^ 『邦訳日葡辞書』511頁右段
- ^ 『邦訳日葡辞書』306頁右段
- ^ 『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.1239、218頁 注(2)
- ^ 『岩槻市史 古代・中世史料編I 古文書史料(下)』1983年、No.475,481
- ^ 『新編武蔵風土記稿』巻203 崎玉郡 5 岩槻領 忍間村附持添新田
- ^ 前掲書959頁
- ^ 『越谷市史 第3巻 史料1』越谷市、1973年、962-967頁
- ^ 大竹自治会、1997年、30-32頁
- ^ 「497 天明7年12月 恩間渡辺氏家譜」『越谷市史 第3巻 史料1』962-963頁
- ^ a b 『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.2245、1082-1083頁
- ^ 『邦訳日葡辞書』84頁右段
- ^ 『邦訳日葡辞書』92頁右段
- ^ 『邦訳日葡辞書』784頁右段
- ^ 『邦訳日葡辞書』510頁右段
- ^ 『邦訳日葡辞書』493頁左段
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- ^ 『邦訳日葡辞書』72頁右段
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- ^ 『邦訳日葡辞書』697頁右段
- ^ 『邦訳日葡辞書』161頁左段
- ^ 『邦訳日葡辞書』682頁左段
- ^ 10巻本『北条記』巻8「若御子対陣之事」(国立公文書館蔵本・昌平坂学問所旧蔵本 第3冊 コマ67)
- ^ a b 『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、416頁、No.1464
- ^ 『邦訳日葡辞書』131頁右段
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- ^ ☆出典確認中
- ^ 『邦訳日葡辞書』352頁右段
- ^ 『邦訳日葡辞書』319頁右段
- ^ 『邦訳日葡辞書』317頁左段
- ^ 『邦訳日葡辞書』687頁右段
- ^ 『邦訳日葡辞書』798頁右段
- ^ 『邦訳日葡辞書』215頁右段
- ^ a b 茂木和平、2006年、第2巻、カ-シ、2165頁
- ^ 岩槻市市史編さん室、1985年
- ^ 782頁。下山氏のご教示による。
- ^ 『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(下)』1982年、952-1060頁
- ^ a b 前掲書958-959頁
- ^ 『武蔵国郡村誌 第11巻』埼玉県立図書館、1954年、第11巻 埼玉郡村誌 巻之七 黒谷村、323頁
- ^ 前掲書960頁
- ^ 『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(下)』976頁
- ^ 『岩槻市史 金石史料編Ⅰ 中世史料』(岩槻市、1984年、196頁)には、妙円寺には明応9年(1500年)の板碑があるとされており、同寺の創建は雨宮主水正の時代よりも遡る可能性がある。
- ^ 『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、36-37,252,257-258頁
- ^ a b c 『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、27-28頁
- ^ 大河内博「ある豪農の盛衰 - 石川民部の系譜」『大きく砕けよ』1990年、160-161頁
- ^ 「松伏町聞き取り調査カード(事件用)」No.1-35・1-146、2001年・2002年
- ^ 「万代記録帳」によると、風間出羽守は黒谷の雨宮家の先祖筋であるが、始祖はその子・雨宮主水正とされているため、後北条氏の推定天正10年の発給文書にみえる風間出羽守と同一人物(の子)であったとしても、当時から一貫して黒谷にあったかは不明で、『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』の伝のように別地からの移住の経緯があったとも考えられる。
- ^ 第11巻 埼玉郡村誌 巻7 下新井村、339-340頁
- ^ 『岩槻市史 民俗史料編』岩槻市市史編さん室、1984年、177頁。『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』(岩槻市史編さん室、1982年)58頁に、「風間用水は、飯塚の金子亀次家の裏、島田タイル屋から入ってきて高曽根に来ているもの」とあり。
- ^ 「清水金之亮家文書」『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(上)』岩槻市市史編さん室、1982年、585-595頁
- ^ 『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(上)』岩槻市市史編さん室、1982年、591頁
- ^ 今井金吾『定本 武江年表 上』筑摩書房、2003年10月。
- ^ 今泉定介編『故実叢書 武家名目抄 職名部 巻6』吉川弘文館、1903年、701-703頁
- ^ 花見朔巳「室町時代の解体期と足軽の研究」花見朔巳「室町時代の解体期と足軽の研究」日本歴史地理学会『日本兵制史』日本歴史地理学会、121-240頁
- ^ 三田村鳶魚「慶長前後の泥坊」『中央公論』第43巻第2号(通巻481号)1928年2月、説苑8-15頁。三田村の主張はその出典の記述内容と論考の結論が必ずしも結び付いていないと思われるが、戦後の戦後の「風摩忍者」に関する時代考証物において支配的な見方となっている。例示は省略する。
- ^ 折口信夫「無頼の徒の芸術」民俗芸術の会『民俗芸術』第1巻第8号、1928年8月、1-14頁。論考のもとは講演での口頭発表で、論拠となる出典への言及が全く示されていないが、安野真幸「『相良氏法度』の研究(二)『スッパ・ラッパ』考」(弘前大学教養部『文化紀要』第40号、1994年9月、9-51頁)や藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995年、201-261頁)など、近年の雑兵論でも通説と見做されている。
- ^ a b 下沢敦「風摩:『北条五代記』「関東の乱波智略の事」について」『共栄学園短期大学研究紀要』2004年、No.20、15-40頁
- ^ 平山優『戦国の忍び』角川新書、2020年9月、88頁
- ^ 平山優『戦国の忍び』角川新書、2020年9月、94-95頁
風魔
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北条配下の忍びたち。郷土相模を愛し、その結束力は非常に強い。それゆえか、徹底した人海戦術を繰り出して、敵の消耗を待つ戦法をとる。 風魔小太郎(ふうま こたろう) 風魔一党の頭目。氏康のことを「ボス」と呼ぶ南蛮人の女性。「風魔の頭は目が光り牙のある巨人」という噂に違わぬ長身である。 道鬼に気づかれずに背後をとるほどの実力者。南蛮刀の使い手で、自身の剛力を合わせれば、木を軽々と真っ二つに出来る。また、手の包帯の中に、鉄拳を仕込んでいる。
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風魔
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「SAKON(左近) -戦国風雲録-」の記事における「風魔」の解説
ニビ 長髪に髭を生やした精悍な顔つきの風魔。 アサギ 坊主頭の風魔。瀕死の重傷に陥った左近とおふうの避難の刻を稼ぐため、十文字の槍を手に幻霧斎と対峙するが、円月斬により斬られる。死の間際、六郎に幻霧斎の刀法を伝える。 ヒワ 羅刹・猿羅と戦った双子の風魔。 ヒワの兄 羅刹・猿羅と戦った双子の風魔。風魔忍法・双ツ躰で猿羅の背後を取るが、右腕を切り裂かれる。猿羅を討ち取ろうと飛びかかるが、正面に立った幻霧斎の円月斬により殺される。 風斎(ふうさい) 先代の風魔小太郎。 アカネ 右目に眼帯を巻く風魔。紅時之丞の秘術で操られ、師匠・風斎へ刀を向けるが、交差直前に自力で術を解き、風斎を殺害するのを防いだ。
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風魔(ふうま)
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魔神の愛犬。オス。絵柄ではハスキーっぽいが、実際は甲斐犬に近い風貌。人懐っこく元気でやんちゃ。主に各話表紙に登場。特に2巻では微笑ましいエピソードが描かれているが、その後突然体調を崩しその翌日に亡くなった(cf.ブログ)。
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風魔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 17:53 UTC 版)
風魔小太郎が首領を務める勢力で、「灰狼衆」とは対立している。山奥に里を持ち、霞の幻術で隠している。禁術は「転変化」だが、現在は灰狼衆に盗まれている。
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風魔
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相模、武蔵の一円に根を下ろした忍者集団。江戸開幕の折、土地と引き替えに幕府の旗本召し抱えとの約束が反故にされ、嘆願も無視されたために幕府を恨み、江戸近辺で騒乱を起こしている。 風祭 陽子(かざまつり ようこ)/ドラマでは風魔 洋子(ふうま ようこ) 俳優 - 志摩みずえ 郷士である風祭家に養女へ出された風魔の姫。男勝りな13歳の美少女。兄小二郎よりも忍びの才があり、兄も知らぬ内に密かに8門もの大づつを用意させるなど、立てる作戦は用意周到にして大胆。 現代で捕虜となり茂や妹の陽子と心を通わせるが、たっての頼みで返還され、茂との和議を説得中に小太郎に斬られる。 風魔 小太郎吉春(ふうま こたろうよしはる) 俳優 - 誠直也 風魔忍軍の頭領。三十代半ば。最期は500Vもの高圧電流を感電させる、茂の忍法「エレキしばり」に敗れ絶命した。 風魔 小二郎高秋(ふうま こじろうたかあき) 俳優 - 永井秀和 小太郎の弟。手練れであったが、茂に捕まり「ふいるむ」の煙で拷問を受ける。 狐狸斎(こりさい) 風魔。小太郎の側近である老忍者。 悪多聞(あくたもん) 風魔。小太郎の側近その2。 摩利支天丸(まりしてんまる) 刀を取っては風魔随一の中忍。炎上した蓮妙院から捕虜にした高尾先生を運び出し、円融寺で守りに就くがモーターバイクを駆る明夫達に奪回された。 空蝉の傀儡(うつせみのくぐつ)、中田の甚兵衛(なかたのじんべえ)、高津の片目(たかつのかため)、祐天寺 五郎(ゆうてんじ ごろう) 風魔の中忍。 流れの葉室(ながれのはむろ)、むささびの平吉(むささびのへいきち)、渡しの六蔵(わたしのろくぞう)、猿若太夫(さるわかだゆう)、青木 右京(あおき うきょう) 愛甲が五人衆を名乗る風魔の援軍。代官屋敷襲撃の主力となる。 雪ガ谷の左文字(ゆきがやのさもんじ) 風祭陽子の裏切りを伝えた風魔の下忍。嘘を申したとの冤罪で小太郎に斬り捨てられる。 王仁王丸(わにおうまる) 風魔に雇われた熊野の修験者。鎖付きの鉄球を振り回すが、礼助に倒されて自爆した。
※この「風魔」の解説は、「夕ばえ作戦」の解説の一部です。
「風魔」を含む「夕ばえ作戦」の記事については、「夕ばえ作戦」の概要を参照ください。
風魔(ふうま)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 09:39 UTC 版)
「ルパン三世 the Last Job」の記事における「風魔(ふうま)」の解説
16世紀(戦国時代)の日本において活躍した忍者集団。風魔一族はルパンシリーズでしばしば登場する勢力だが、本作の風魔は本作オリジナルのものであり、現在は飛鳥と摩耶だけしか残っていないという。本作の風魔は16世紀にローマから日本に亡命してきた科学者たちが、同地の山賊達と結びつき、その科学力を忍術として活躍したものだという。「ふうま」という名前自体が「ローマ」が訛ったものと説明されている。
※この「風魔(ふうま)」の解説は、「ルパン三世 the Last Job」の解説の一部です。
「風魔(ふうま)」を含む「ルパン三世 the Last Job」の記事については、「ルパン三世 the Last Job」の概要を参照ください。
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