北条氏康から氏政の時代へとは? わかりやすく解説

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北条氏康から氏政の時代へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 06:27 UTC 版)

小田原征伐」の記事における「北条氏康から氏政の時代へ」の解説

戦国時代新興大名として台頭した北条氏康は、武蔵国進出志向して河越夜戦で、上杉憲政足利晴氏などを排除し甲斐武田信玄駿河今川義元との甲相駿三国同盟背景関東進出本格化させると関東管領職を継承した越後の上謙信対峙し、特に上杉氏関東出兵には同じく信濃侵攻において上杉氏対峙する武田氏との甲相同盟により連携して対抗した戦国後期には織田徳川勢力と対峙する信玄それまで北進策を転換し駿河今川領国への侵攻駿河侵攻)を行ったため後北条氏甲斐との同盟破棄し謙信越相同盟を結び武田氏挟撃するが、やがて甲相同盟を回復すると再び関東平定進めていく。 信玄西上作戦途上急死した後、越後では謙信の死によって氏政の庶弟であり謙信養子となっていた上杉景虎と、同じく養子謙信の甥の上景勝の間で御館の乱勃発した武田勝頼は氏政の要請により北信濃まで出兵両者調停試みるが、勝頼が撤兵した後に和睦崩れ景勝が乱を制したことにより武田家との同盟手切となった。なお、勝頼と景勝甲越同盟を結び天正8年1580年)、北条氏武田敵対関係転じたことを受け、氏照が同盟結んでいた家康の上位者である信長領国進上し織田氏への服属示した。氏政は氏直に家督譲って江戸城隠居したあとも、北条氏照北条氏邦など有力一門に対して宗家としての影響力及ぼし実質的当主として君臨していた。[要出典] 上杉氏の手切後、勝頼は常陸国佐竹氏ら反北条勢力同盟を結び対抗し織田信長とも和睦試みているが天正10年1582年)に信長徳川家康本格的な甲州征伐開始し後北条氏もこれに参加している。この戦いで武田氏滅亡し後北条氏上野駿河における武田方の諸城攻略したものの、時期逸したものとなった。 しかし、同年末の本能寺の変信長明智光秀謀反によって自刃した直後北条氏織田家謀反起こし織田領に攻め込んだ織田氏家臣滝川一益の軍を敗退させた神流川の戦い経て織田体制背いた北条氏征伐するために軍を起こした家康との間に天正壬午の乱勃発した。この遠征家康単独行ったものではなく織田体制から承認得たうえでの行動であり、織田体制側からも水野忠重援軍として甲斐出兵していた。また、追って上方からも援軍出兵される予定であった織田信雄織田信孝の間で政争起こったため中止された。家康北関東佐竹義重結城晴朝皆川広照水谷正村らと連携しながら北条氏打倒目指した。北条氏一時東信濃支配下置いたが、真田昌幸離反後方に不安を抱えたままの合戦嫌った後北条氏は、10月織田信雄織田信孝からの和睦勧告受け入れ後北条氏上野徳川氏甲斐信濃を、それぞれ切り取り次第領有することで講和の道を選んだ。だが、徳川傘下となった昌幸は勢力範囲一つ沼田割譲講和条件とされたことに激怒徳川氏からも離反し景勝を頼ることとなった後北条氏徳川氏との同盟締結によって、全軍関東集中できる状況作りあげた。既に房総南部里見氏事実上従属下に置いていた北条氏は、北関東軍勢集中させることとなった北条氏は翌天正11年(1583年)1月に早速前橋城攻撃すると、3月には沼田にも攻め込んだ6月北条氏家康の間で婚姻成立した。この婚姻成立は、天正壬午の乱のときと同様家康に対北条後ろ盾になってくれることを期待していた北関東領主たちに衝撃与えた北関東領主たちは家康から離れ一斉に羽柴秀吉書状送り秀吉関東の無事の担い手になることを求めた秀吉北条氏の無事を乱す行為問題視したものの、当時政権内では東国についての優先度低く10月末に家康関東の無事の遅れを糺しただけで終わった。それさえも翌天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いが始まると無形化してしまった。 天正11年11月末、沼尻の合戦起こり北条氏北関東領主たちは全面戦争突入した天正12年になると北条氏宇都宮侵攻し佐竹氏小山攻撃した両者4月から7月にかけて沼尻から岩舟の間で対陣した天正13年(1585年)から15年(1587年)にかけて秀吉西国計略進める裏で関東の無事は放置され北関東領主たちは苦境陥った北条氏天正13年1月佐野攻撃し当主佐野宗綱戦死させ氏康の六男・氏忠を当主据えることに成功した。また同月までに館林城長尾顕長服属させた。館林南関東北関東結節点に当たり、館林攻略によって北条氏北関東への侵攻容易になった。9月には真田領・沼田侵攻し14年4月にも再度侵攻した北条氏並行して皆川氏にも攻撃加えた天正14年5月にいったん和睦したが、その後再び侵攻した皆川氏上杉氏助力得て撃退成功するが、天正15年講和北条氏支配下にはいった。また、天正13年8月には家康真田攻撃し、翌14年(1586年)にも再度侵攻計画したが、秀吉が間に入って未遂終わった天正15年12月秀吉北関東領主たちに北条氏佐野支配認めることを通知し現状追認することを明らかにした。天正16年(1588年)2月北条氏直笠原康明を上洛させ、沼田領の引き渡し条件豊臣政権従属申し入れた。 「五畿内同前」と重要視していた九州平定天正15年中に終えた秀吉は、天正16年4月後陽成天皇聚楽第行幸行った北条氏に対して氏政・氏直親子の聚楽第行幸への列席求められたが、氏政はこれを拒否した。京では北条討伐風聞が立ち、「京勢催動」として北条氏臨戦体制を取るに至ったが、徳川家康起請文により以下のような説得受けた家康北条親子の事を讒言せず、北条氏領国一切望まない 今月中兄弟衆を派遣する 豊臣家への出仕拒否する場合督姫離別させる 行幸には東国領主たちも使者派遣したが、北条氏使者派遣しなかった。 5月東国取次家康北条氏政と氏直に書状遣わし、氏政兄弟のうちしかるべき人物上洛させるよう求めた北条氏はこれに応え8月には氏政の弟の北条氏規名代として上洛し、豊臣北条勢力間の緊張和らいだまた、12月には氏政が弁明のために上洛する予定であることを伝えたがこの約束履行されなかった。 北関東下野国宇都宮周辺部では、壬生城および鹿沼城壬生義雄が元々親北条であり、宇都宮家の重臣真岡城城主芳賀高継当初こそ主家従い北条抵抗する天正17年1589年)終にこれに屈し佐野氏には養子送り込み那須一族に対して北条氏主導的な盟約結んだ。これにより北条氏は、小田原開戦時点では下野大半勢力下に置いていた。さらに常陸国南部にも進出し佐竹氏背後奥州伊達政宗同盟を結ぶなどしており、関東平野制圧目前迫っていた。劣勢となった佐竹義重宇都宮国綱佐野房綱ら反北条氏方の諸侯秀吉近づくこととなる。

※この「北条氏康から氏政の時代へ」の解説は、「小田原征伐」の解説の一部です。
「北条氏康から氏政の時代へ」を含む「小田原征伐」の記事については、「小田原征伐」の概要を参照ください。

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