北条氏政との連携と窮地脱出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:03 UTC 版)
「小田氏治」の記事における「北条氏政との連携と窮地脱出」の解説
土浦城が落城した際、多くの小田家武将が討ち死に又は佐竹氏に降伏し、その後佐竹義重に攻められた行方城も落城するなど、氏治は著しく劣勢となった。しかし必ずしも徹底的な打撃ではなく、氏治は再起する力を温存していた。小田氏治の庶長子・友治はその頃相模の北条氏政に仕えていたが、氏政に氏治を援助するようしきりに依頼していた。天正2年(1574年)11月、佐竹義重は簗田晴助が篭城する下総関宿城を救援するため出陣したが、北条氏政・氏照兄弟2万の軍勢や増水した利根川に阻まれ、引き退かざるを得なかった。このとき氏政は、友治の要請に応えて北条氏房に土浦城を攻めさせ、佐竹に降っていた城将・菅谷政貞はもとより義を守り、志を氏治に通じていたため戦わずして北条氏に降り、土浦城を奪回した。 天正5年(1577年)、北条氏政は軍を送って梶原政景の守る小田城を攻めたが、佐竹の後詰が後援したため退いている。氏治は北条氏の出兵による佐竹氏の混乱の中で再起を図り、千葉氏・相馬氏・江戸氏の援軍も得て手子生城を奪い返し、これに入城した。氏治は木田余城には飯塚美濃守、土浦城には菅谷政貞、海老ヶ島城には平塚弥四郎に守らせ、小田家軍師・天羽源鉄には策略をもって太田資正・梶原政景父子と白小谷、子張、手這山で戦わせた。氏治は再び失地を回復し、佐竹義重に対抗した。
※この「北条氏政との連携と窮地脱出」の解説は、「小田氏治」の解説の一部です。
「北条氏政との連携と窮地脱出」を含む「小田氏治」の記事については、「小田氏治」の概要を参照ください。
- 北条氏政との連携と窮地脱出のページへのリンク