北条氏政との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)
天正元年(1573年)8月、謙信が越中朝日山城を攻撃していた時、北条氏政が上野国に侵攻していた。 上洛を目指す謙信の主戦場は既に関東でなく越中国であったが、後顧の憂いを無くすため、天正2年(1574年)、8000の兵を率いて関東に出陣し上野金山城主の由良成繁を攻撃、3月には膳城、女淵城、深沢城、山上城、御覧田城を立て続けに攻め落とし戦果をあげた。しかし成繁の居城である要害堅固な金山城を陥落させるに至らず(金山城の戦い)。さらに武蔵における上杉方最後の拠点である羽生城を救援するため4月、氏政と再び利根川を挟んで相対する(第二次利根川の対陣)。しかし、増水していた利根川を渡ることは出来ず、5月に越後国へ帰国。羽生城は閏11月に自落させた。 天正2年(1574年)、北条氏政が下総関宿城の簗田持助を攻撃するや、10月に謙信は関東へ出陣、武蔵国に攻め入って後方かく乱を狙った。謙信は越中平定に集中していたが、救援要請が届くと軍を転じて関東に出陣した。上杉軍は騎西城、忍城、鉢形城、菖蒲城など諸城の領内に火を放ち北条軍を牽制したが、佐竹など関東諸将が救援軍を出さなかったため、北条の大軍に攻撃を仕掛けることまでは出来なかった。このため関宿城は結局降伏することとなった(第三次関宿合戦)。閏11月に謙信は北条方の古河公方・足利義氏を古河城に攻めているが、既に関東では上杉派の勢力が大きく低下していた。12月19日、剃髪して法印大和尚に任ぜられる。なおこの年の3月、織田信長から狩野永徳筆の『洛中洛外図屏風』を贈られる。 天正3年(1575年)1月11日、養子の喜平次顕景の名を景勝と改めさせ、弾正少弼の官途を譲った。
※この「北条氏政との戦い」の解説は、「上杉謙信」の解説の一部です。
「北条氏政との戦い」を含む「上杉謙信」の記事については、「上杉謙信」の概要を参照ください。
- 北条氏政との戦いのページへのリンク