北条氏の猛攻とは? わかりやすく解説

北条氏の猛攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 09:38 UTC 版)

小川台合戦」の記事における「北条氏の猛攻」の解説

北条氏政天正2年1574年1月以来下総国関宿城攻撃本格化させた。上杉謙信2月8月二度渡って越山救援に来たほか、佐竹義重らも北条軍出鼻を挫こうと努力した。 ところが北条軍の対応を巡り11月下旬謙信と義重が対立し決裂となる。義重は結城晴朝通じて武田勝頼和睦斡旋受け入れ謙信自身下総上野北武侵攻専心することになった謙信佐竹氏らと決別し影響大きく、晴朝は謙信断交北条氏結んだほか義重の斡旋簗田持助抵抗諦め16日には抵抗諦め19日には開城し、佐竹義重宇都宮広綱北条氏政和睦し撤退した天正3年1575年6月北条氏政下野国奪取目論み、北条氏照らを下野侵攻させ榎本城攻めて落城させた。勢いに乗る北条軍小山秀綱本城攻め陥落寸前まで追い込んだ。この事態危機感覚えた義重は天正2年11月和睦破棄し謙信との同盟復活させた。謙信小山氏滅亡危機重視し、義重に小山秀綱支援要請した一方北条氏は、天正3年1575年8月里見の上酒井氏圧迫し正木種茂や土岐為頼などの救援行っている。9月には由良成繁・国繁父子が五覧田城再興し沼田城の上方に備え、しばしばこれと交戦している。10月謙信越山関東侵攻し由良氏支配領域蹂躙し甚大な打撃与えたが、由良氏本拠金山城や五覧田城などの攻略には至らなかった。それだけではなく謙信下野武蔵軍勢進めことなく小山氏里見氏攻め北条軍牽制することなく越後軍勢11月には引き上げてしまった。その結果12月には小山城落城し秀綱は佐竹氏のもとに落ち延びることになる。落城後の天正4年1576年2月に氏政は氏照に命じて小山城普請強化行い5月には完了させた。 謙信天正4年1576年5月最期越山実施し新田足利桐生蹂躙したが、北条氏勢力追い落とすことはできなかった。同年冬には、北条氏攻勢に耐え切れず上総酒井氏和睦申請し房総での北条氏優位は明らかとなった。 この事態受けて正木憲時里見義弘梶原政景らが相次いで謙信越山要請し救援請うが、応えなかった。謙信本願寺一向一揆との同盟契機として対織田戦争心血を注いでいたからである。謙信能登越中計略一段落すれば越山すると佐竹氏らに返答したがその機会訪れなかった。

※この「北条氏の猛攻」の解説は、「小川台合戦」の解説の一部です。
「北条氏の猛攻」を含む「小川台合戦」の記事については、「小川台合戦」の概要を参照ください。

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