北条氏の猛攻
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北条氏政は天正2年(1574年)1月以来、下総国関宿城の攻撃を本格化させた。上杉謙信が2月、8月と二度に渡って越山し救援に来たほか、佐竹義重らも北条軍の出鼻を挫こうと努力した。 ところが北条軍の対応を巡り11月下旬に謙信と義重が対立し決裂となる。義重は結城晴朝を通じて武田勝頼の和睦斡旋を受け入れ、謙信自身は下総、上野、北武蔵侵攻に専心することになった。謙信が佐竹氏らと決別した影響は大きく、晴朝は謙信と断交し北条氏と結んだほか義重の斡旋で簗田持助も抵抗を諦め16日には抵抗を諦め、19日には開城し、佐竹義重・宇都宮広綱も北条氏政と和睦し撤退した。 天正3年(1575年)6月北条氏政は下野国奪取を目論み、北条氏照らを下野に侵攻させ榎本城を攻めて落城させた。勢いに乗る北条軍は小山秀綱の本城を攻め、陥落寸前まで追い込んだ。この事態に危機感を覚えた義重は天正2年閏11月に和睦を破棄し、謙信との同盟を復活させた。謙信も小山氏滅亡危機を重視し、義重に小山秀綱支援を要請した。 一方、北条氏は、天正3年(1575年)8月に里見方の上総酒井氏を圧迫し、正木種茂や土岐為頼などの救援を行っている。9月には由良成繁・国繁父子が五覧田城を再興し沼田城の上杉方に備え、しばしばこれと交戦している。10月に謙信は越山し関東に侵攻し由良氏の支配領域を蹂躙し甚大な打撃を与えたが、由良氏本拠の金山城や五覧田城などの攻略には至らなかった。それだけではなく、謙信は下野や武蔵に軍勢を進めることなく小山氏や里見氏を攻める北条軍を牽制することなく越後に軍勢を11月には引き上げてしまった。その結果、12月には小山城が落城し秀綱は佐竹氏のもとに落ち延びることになる。落城後の天正4年(1576年)2月に氏政は氏照に命じて小山城の普請強化を行い5月には完了させた。 謙信は天正4年(1576年)5月に最期の越山を実施し新田・足利・桐生を蹂躙したが、北条氏の勢力を追い落とすことはできなかった。同年冬には、北条氏の攻勢に耐え切れず上総酒井氏が和睦を申請し、房総での北条氏の優位は明らかとなった。 この事態を受けて、正木憲時・里見義弘・梶原政景らが相次いで謙信に越山を要請し救援を請うが、応えなかった。謙信は本願寺・一向一揆との同盟を契機として対織田戦争に心血を注いでいたからである。謙信は能登・越中の計略が一段落すれば越山すると佐竹氏らに返答したがその機会は訪れなかった。
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