北条氏への改称
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 08:53 UTC 版)
氏綱の家督相続とともに伊勢(後北条)氏は虎の印判状を用いるようになっている。印判状のない徴収命令は無効とし、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を抑止する体制が整えられた。それまで、守護が直接百姓に文書を発給することはなかったが、印判状の出現により戦国大名による村落・百姓への直接支配が進むようになる。 宗瑞の時代、伊勢(後北条氏)の居城は伊豆の韮山城であったが、氏綱はそれまで在番していた相模の小田原城を本城化させた。また家督相続に伴う代替わり検地の実施と、安堵状の発給を行っている。 大永年間(1521年 - 1527年)から氏綱は寒川神社宝殿・箱根三所大権現宝殿の再建そして相模六所宮・伊豆山権現の再建といった寺社造営事業を盛んに行っており、その際に「相州太守」を名乗り(氏綱が相模守になった事実はない)、事実上の相模の支配者たるを主張している。 大永3年(1523年)6月から9月の間に氏綱は名字を伊勢から北条へと改めたと推定される。 父・宗瑞は明応の政変(1493年)を契機に幕府の承認を受けて伊豆に侵攻して領国化し、さらには相模をも平定したが、山内・扇谷両上杉氏をはじめとする旧来からの在地勢力からは「他国の逆徒」と呼ばれて反発を受けていた。領国支配を正当化するために自らを関東とゆかりの深い執権北条氏の後継者たらんとする発想は宗瑞の時代からあり、氏綱の代にこれを実現したことになる。旧来、伊勢氏とは全く無関係の執権北条氏(鎌倉北条氏)を勝手に名乗った、あるいは宗瑞が北条氏末裔の北条行長の養子となった、などとされてきたが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}近年[いつ?]の調査で正室の養珠院殿が執権北条氏の末裔とされる横井氏(横江氏)の出身であった可能性が指摘されている。養珠院殿は永正12年(1515年)に3代目となる氏康を産んでいる。また近年[いつ?]の別の研究では、この北条改称は単なる自称ではなく、朝廷に願い出て正式に認められたものであると考えられている。改称から数年後には執権北条氏の古例に倣った左京大夫に任じられ、家格の面でも周辺の今川氏や武田氏、上杉氏と同等になっている。なお、北条氏に改めたとされる大永3年6月から9月の時点では、氏綱と扇谷上杉家は和睦していたという見方もあり、北条改称は氏綱による一種の敵対表明であり、これをきっかけに氏綱は小机領進出に踏み切り、さらに扇谷・山内両上杉家の反北条同盟の成立、翌年の江戸城攻略に至ったとする解釈もある。
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