北条氏の台頭とは? わかりやすく解説

北条氏の台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:30 UTC 版)

鎌倉幕府」の記事における「北条氏の台頭」の解説

鎌倉幕府確立成し遂げた源頼朝は、正治元年1199年1月突然死去した。跡を継いで鎌倉殿となったのは、頼朝嫡子当時18歳源頼家だった。しかし、幕府有力者たちは、若年頼家政務任せることに不安を抱き、有力御家人頼家に代わって裁判政務執行する十三人の合議制呼ばれる政治体制築いた。この合議制中心にいたのは頼家外戚にあたる北条氏であり、北条時政北条義時父子は他の有力御家人次々と滅ぼしていった(1200年梶原景時の変1203年比企能員の変)。 1203年重病陥った頼家は、外祖父時政の手により伊豆修禅寺幽閉され、弟の源実朝次の鎌倉殿将軍位に就くと、翌1204年頼家死亡した時政北条氏の手勢により暗殺されたと伝えられている。時政は、3代将軍実朝補佐して執権呼ばれる地位に就き政治実権握っていった。翌1205年時政娘婿平賀朝雅将軍にしようと画策、朝雅と対立する畠山重忠殺害し実朝を廃そうとした(畠山重忠の乱)。しかし、時政の子義時北条政子はこの動き反発し、有力御家人連帯して時政引退させるとともに平賀朝雅抹殺した牧氏事件)。 この後北条義時執権となり、北条氏権力確立努めたが、侍所別当和田義盛対抗勢力として現れた。義時計略めぐらし1213年和田一族滅ぼした和田合戦)。このように武力紛争絶えない幕府状況は、承久元年1219年1月将軍源実朝暗殺という最悪事態に至る。頼朝直系断絶し困惑した幕府は、朝廷親王将軍要望したが、治天の君後鳥羽上皇はこれを拒否し曲折の末、頼朝遠縁に当たる摂関家幼児藤原頼経が新将軍鎌倉殿として迎え入れられた。この後2代鎌倉殿摂家将軍呼ばれる。こうして幕府実権は、執権北条氏掌握することとなった

※この「北条氏の台頭」の解説は、「鎌倉幕府」の解説の一部です。
「北条氏の台頭」を含む「鎌倉幕府」の記事については、「鎌倉幕府」の概要を参照ください。

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