結城氏・小山氏連合
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高朝は実兄である結城政勝と小山・結城氏連合を形成して、周辺の有力な敵対する大名である宇都宮氏・小田氏・佐竹氏らに対抗しようとした。政勝には明朝という男子があったが、幼くして死去したため、高朝の3男の晴朝を政勝の養嗣子として迎えて結城氏の家督を譲り、連合の結束力はさらに強化されることとなった。小山氏を北方から虎視眈々と狙う宇都宮氏に対抗すべく、結城・小山連合は宇都宮氏の勢力の北東にあって宇都宮氏と対立する那須氏と連携を深めていった。 それに対抗して宇都宮氏は那須氏の南東、結城・小山連合の北東に位置する佐竹氏、小田氏と連携する様相になり、下野国・常陸国などの北東関東地方では、結城・小山・那須連合と宇都宮・佐竹・小田連合が互いに牽制しあう状況になった。 天文14年(1545年)10月、河越夜戦が起こる。古河公方足利晴氏と扇谷・山内両上杉家らは連合して北条氏康の関東侵略を阻止しようと、北条氏康軍と河越で衝突した。しかし、結果は北条氏康の大勝利に終わった。氏康は武蔵北部から下野・下総・常陸に及ぶ広大な範囲へ勢力を伸ばそうとし、敗戦した古河公方足利晴氏は北条氏の影響下に入らざるを得なかった。 天文21年(1552年)、北条氏康は古河公方足利晴氏を押し込めて、自分の妹と晴氏の間にできた子である甥・義氏に家督を譲らせた。古河公方押し込めによる交代は結城政勝・小山高朝兄弟をはじめ、関東の諸将に衝撃と動揺、そして困惑を与えた。義氏が古河公方になったことで、北条氏康は関東管領のように振舞うことになり、今までは北条氏に対して関心のなかった北関東の諸将たちも北条氏に対する対応を考えざるを得なくなった。 北条氏の台頭によって関東地方には大きな転換期が訪れた。それへの対応をめぐって小山・結城両氏の連合に歪みが現れる。また、小山氏の内部でも高朝とその子の秀綱との間に意見のずれが生まれた。高朝・秀綱父子は、足利晴氏と緊密な関係を結んでいた。そこへ義氏が古河公方に着任したことで、問題が起こった。それは、これから足利晴氏、足利義氏の父子のどちらを支持するからということであった。 高朝は晴氏を支持する立場を堅持するとし、秀綱は義氏を新たに支持する立場への転換を明確にした。高朝・秀綱父子は意見が対立したが、小山氏の分裂することはなかった。しかし、結城氏は義氏を支持することを明確にしたため、結城政勝と小山高朝との間には進む方向に亀裂が生じ、結城・小山連合はここに解体することとなった。
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