結城晴朝の離叛
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北条氏の北関東侵攻が順調に進捗していた矢先の天正5年(1577年)6月結城晴朝が小山秀綱の調略に応じ、謙信、義重と結び北条氏と敵対する旗幟を鮮明にした。氏政はただちに氏照、氏邦らを派遣し閏7月に結城城を攻撃した。晴朝はこれに激しく抵抗するが、北条軍の先鋒に城外で打ち破られ、数百人が死傷する被害を出した。北条軍の攻めは8月下旬に至っても続き、その間の8月28日には山川口(結城郡)で両軍の衝突があった。この戦闘も北条氏優位ではあったが、晴朝を下すことはできなかった。 それでも宇都宮広綱が従属を申請する成果を得ることにはなった。一方、晴朝が北条軍に攻撃されることを知った義重は榎本城、小山城を攻撃しようとした。その意図を察知した氏政は結城攻めと並行して榎本城の近藤綱秀のもとへ酒井康治を派遣した。氏政は康治に対して、必ず義重が攻めてくるであろうから備えを堅固にして防備するよう督励している。佐竹軍は9月に下野に侵攻し小山城を攻めて北条軍の注意を下野に向けた。 10月9日から19日にかけて氏照・氏邦は下野国で知行宛行をしているのでこの時までには義重は軍勢を退き、北条は榎本・小山を確保し、佐竹は当初の目的である晴朝の救援は実現した。
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