結城政朝との関係悪化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/23 01:49 UTC 版)
永正13年11月8日(1516年12月1日)、偉大なる父・宇都宮成綱が没した。これによって名実ともに下野宇都宮氏の当主となった。縄釣の戦いの半年後のことであった。さらには翌年、佐竹氏当主の佐竹義舜も没している。 忠綱は叔父である塩谷孝綱、武茂兼綱の補佐を受けて父の遺志を継ぎ、下野宇都宮氏のさらなる躍進を狙った。笠間氏や奥州伊達氏などとの連絡も多く行っており、家中支配のさらなる強化も行っている。成綱が没した後も足利高基との関係は良好だった。また、統一那須氏の後継者争いにも介入したりなど勢力拡大に積極的だった。しかし、成綱が没したことによって同盟関係である結城政朝との関係が悪化し、不安定になってくる。 結城氏とは、父・宇都宮成綱の代に成綱が成綱の姉である玉隣慶珎大姉を結城政朝に嫁がせて、義兄弟の関係になり、強固な同盟関係を築いていた。 関係悪化の主な原因は室町時代の頃の下野国旧結城領を巡って両者の間に確執があったといわれている。また、忠綱は結城政朝の器量を恐れていたという。
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