結城政勝との戦い
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父・政治が天文17年(1548年)7月22日に56歳で死去し、小田氏の家督を相続した。政治の代で小田氏は河越夜戦で関東管領上杉・古河公方足利連合軍に味方して敗れ、北条・佐竹両氏の拡大により小田氏の勢いに陰りが見え始めていた。家督を継いだばかりの氏治にとって最大の敵は、下総の結城城主・結城政勝であった。同年、小田氏配下の真壁城主・真壁久幹が結城政勝の家臣・水谷治持により結城方へ寝返ったことで、小田氏の力が削がれる。8月、政勝は下妻城主・多賀谷政経を降伏させ再び配下とし、支配体制を強化した。さらに相模の北条氏康と親交を持って助力を得ることに成功した。 弘治元年(1555年)、小田氏治は常陸太田城主・佐竹義昭と共に出兵し、相模の北条氏康と通じた結城政勝を攻めた。翌・弘治2年(1556年)(弘治3年説有り)2月4月5日、結城政勝は北条氏康から援軍として武蔵の岩付城主・太田資正と江戸城主・遠山綱景を授けられ、小田領へ侵入した。氏治はこれを迎え撃つも海老ヶ島の戦いで敗れ、海老ヶ島城だけでなく居城・小田城も奪われ土浦城に入る。しかし常陸進出を目指す北条氏康は、常陸北部の佐竹義昭に対抗するため氏治と和解。8月24日、氏治は北条氏の助力を得られなくなった結城勢を追い払い、小田城へ戻っている。
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