結城政勝との戦いとは? わかりやすく解説

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結城政勝との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:03 UTC 版)

小田氏治」の記事における「結城政勝との戦い」の解説

父・政治天文17年1548年7月22日56歳死去し小田氏家督相続した政治の代で小田氏河越夜戦関東管領上杉古河公方足利連合軍味方して敗れ北条佐竹両氏拡大により小田氏勢い陰り見え始めていた。家督継いだばかりの氏治にとって最大の敵は、下総結城城主・結城政勝であった同年小田氏配下真壁城主・真壁久幹結城政勝家臣水谷治持により結城方へ寝返ったことで、小田氏の力が削がれる。8月、政勝は下妻城主・多賀谷政経降伏させ再び配下とし、支配体制強化した。さらに相模北条氏康親交持って助力を得ることに成功した弘治元年1555年)、小田氏治常陸太田城主・佐竹義昭と共に出兵し、相模北条氏康通じた結城政勝攻めた。翌・弘治2年1556年)(弘治3年有り2月4月5日結城政勝北条氏康から援軍として武蔵岩付城主・太田資正江戸城主・遠山綱景授けられ小田領へ侵入した。氏治はこれを迎え撃つ海老島の戦い敗れ海老ヶ島城だけでなく居城小田城奪われ土浦城に入る。しかし常陸進出目指す北条氏康は、常陸北部佐竹義昭対抗するため氏治と和解8月24日、氏治は北条氏助力得られなくなった結城勢を追い払い小田城戻っている。

※この「結城政勝との戦い」の解説は、「小田氏治」の解説の一部です。
「結城政勝との戦い」を含む「小田氏治」の記事については、「小田氏治」の概要を参照ください。

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