大森氏の衰退と一族のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 03:34 UTC 版)
「大森氏」の記事における「大森氏の衰退と一族のその後」の解説
その後の大森氏について、通俗的には氏頼の子で実頼の弟の大森藤頼の代に伊勢盛時の手により小田原城を落とされ没落したといわれるが、史料の上ではつじつまの合わない部分も多く、その経緯の詳細については不明である。なお三浦氏滅亡の際にともに討ち死にした人物に「大森越後守」があり、氏頼の弟の高頼とされている。いずれにせよ長享の乱以降の扇谷上杉家の衰退と相模における後北条氏の台頭に従い、大森氏が没落していったことには間違いないが、北条家所領役帳には『大森殿』と殿付きで呼ばれている人物があり、大森氏の一族が客分扱いで後北条氏に従属していたと考えられている。またこの『大森殿』以外にも永禄10年(1567年)11月に北条氏邦から印判状を与えられた「大森越前守」、駿河日枝社神主「大森猿千代」、天正13年(1585年)に徳川家康の援軍として北条氏房から派遣された「大森兵衛太夫」、「小田原合戦」で小田原城に籠城した「大森甲斐守」が存在する。江戸時代に入っても徳川氏に仕え江戸幕府の寄合旗本として存続した者の他、水戸、備中など各地で大森氏子孫を名乗る家が存在した。
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