大森氏の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/19 01:31 UTC 版)
中世に入ると、神領の代官だった在地武士が開発領主として支配権を強化していったと推定され、大森氏とその支族が事実上の領主となった。鎌倉時代の中期になると、大森氏は得宗家である北条氏の御内人となったとみられ、この地方で圧倒的な勢力に発展した。 『吾妻鏡』にみえる「鮎沢六郎」や『曽我物語』の「合沢弥五郎」も大森氏一族の人物とみられる。「大森葛山系図」には大森惟康(葛山惟康)の子、「鮎沢四郎太夫惟兼」(藍沢惟兼)とその子「鮎沢六郎康兼」の名があり、当地の開発領主だったと考えられている。なお、『吾妻鏡』建長2年(1250年)には平安京の造営工事に伴う各地の御家人の賦役についての記述があり、「鮎沢六郎跡」(鮎沢六郎の後継者)には築地塀用の柱を1本供出するよう命じられている(建長2年3月1日条)。この記述から同年までに鮎沢氏の代替わりがあったことが推定されるが、比企能員の変(1203年)か和田合戦(1213年)に関わって領地を奪われたとみる説もある。 鎌倉時代と室町時代の端境期にあたる建武の新政(1333年-1336年)には、藍沢原の伊勢神宮領に関連する文書が残る。後醍醐天皇が、結城宗広に対し、「藍沢御厨内大沓間」(御殿場市東田中の一部と比定される)の所領を三河国の別の土地へ交換するよう命じた令旨がそれである。ただし、結城宗広が当地への実際上の支配力を有していたかは疑問がもたれている。 室町時代にも、引き続きこの地を大森氏が在地領主として支配していたことが史料から伺える。応永28年(1421年)・同29年(1422年)には、大森氏が鮎沢の所領を近傍の寺社へ寄進したという史料がある。
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