北条氏による滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 10:21 UTC 版)
義村の子には朝村、泰村、三浦長村、光村、三浦重村、家村、三浦資村、三浦胤村(のち親鸞の弟子)、三浦重時、三浦良賢らがいる。 義村の長男である朝村の末裔が今川氏の家臣である駿河三浦氏であると言う。 次男は三浦泰村(1184年-1247年)。 四男は三浦光村。 泰村と光村は権力を持ち北条氏を凌ぐほどになったため、宝治元年(1247年)の宝治合戦で北条氏と安達景盛らに滅ぼされた。 『吾妻鏡』には、三浦氏が喧嘩を起こしたという記事が極めて多い。義村、泰村、家村などが喧嘩を起こした記事がある。ただし、『吾妻鏡』は三浦氏が宝治合戦で滅ぼされた後、北条氏側の視点で書かれた史料であるため、三浦氏を貶める為に曲筆がなされた可能性もある。千葉胤綱が三浦義村の和田合戦での変節を「三浦の犬は友を食らうぞ」と非難したという『古今著聞集』のエピソードから、より口汚く「狂犬(マッドドッグ)」と評する人もいる。三浦氏は鎌倉幕府内部において、評定衆として枢要な地位についていたが、その地位を悪用した振る舞いをすることが度々あったとされる。
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