大戦後のフランス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 14:33 UTC 版)
「ジュリア・チャイルド」の記事における「大戦後のフランス」の解説
チャイルドは、ルーアンでの最初の食事を、料理の啓示として繰り返し回想しており、ニューヨークタイムズではカキ、ヒラメのムニエル、上質なワインの食事を「私にとっての魂と精神の開放」と表現した。彼女はパリで有名なル・コルドン・ブルー料理学校に通い、後にMax Bugnardやその他の熟練シェフから個人的に教えを受けた。彼女は女性のための料理クラブLe Cercle des Gourmettesに参加し、そこでルイゼット・ベルトレ(英語: Louisette Bertholle)と共にアメリカ人向けのフランス料理本を執筆していたシモーヌ・ベック(英語: Simone Beck)に出会う。ベックは、よりアメリカ人にアピールできる本になるよう、チャイルドへ本の製作への参加を提案した。1951年、チャイルド、ベック、そしてベルトレは、チャイルドのパリのキッチンでアメリカ人女性向けの料理教室を始め、この非公式な学校をL'école des trois gourmandes(三人の美食家の学校)と名付けた。その後10年間、チャイルド夫妻はヨーロッパ中を移り住み、最終的にマサチューセッツ州ケンブリッジに引っ越したが、その間3人はレシピを研究し、繰り返しテストし続けた。チャイルドはフランス語を英語に翻訳し、レシピを詳細で、面白く、実用的にした。 1963年、チャイルド夫妻は、共著者のシモーヌ・ベックとその夫のジャン・フィッシュバッハーの所有する、プロヴァンスの町プラスカシエの近くのカンヌを見渡す丘に家を建てた。チャイルド夫妻はこの丘を、プロヴァンス方言で「小さなもの」を意味する"La Pitchoune"と名付けたが、そのうち、愛称として”Le Peetch"と呼ばれるようになった。
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