戦争前期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 03:21 UTC 版)
イギリスとフランスでは、機甲部隊は陸軍に受け入れられていたが、しかし分業で運用されていた。いくらかは歩兵支援兵器として、他のものは騎兵の役割を代替していた。こうしてイギリスとフランスの歩兵戦車は重装甲となり、鈍重なものとなった。これに対してイギリスの騎兵戦車、巡航戦車は軽快であり、また貧弱な装甲という結果を招いた。しかしドイツ軍のいくつかの戦車は独自の機動作戦のために設計されたI号戦車とII号戦車は、また汎用的な戦車となった。歩兵戦車と比較して、軽量かつ相当に優れた機動性を持つが、より貧弱な機関銃と装甲を施されていたためスペイン内戦(1937~39)で対戦車能力の不足からIII号戦車とIV号戦車が主力の座を譲るはずだったかが戦車自体の絶対数が不足していた。 1940年、ドイツ軍の戦車はイギリスの歩兵戦車と実際に戦わねばならなくなり、これらドイツ戦車は激しい妨害を受けたものの、ヨーロッパ大陸からイギリス陸軍を追放して埋め合わせた。ドイツ軍の侵攻が開始された時、フランスはより多数の戦車を保有しており、それらはドイツ戦車よりも一対一の状況では優れていた。しかしながら当時の政府と陸軍は「マジノ線の威光」をやみくもに信じ、戦車開発は二の次ということと、重要なことはどのように戦車が用いられたか、であった。フランスの司令部は、歩兵支援のために、戦車の半数を独立運用される「Bataillons de Chars de Combat」(戦車大隊)へ分割した。これらの戦車の使用は、地域の部隊指揮官の意志決定に拘束された。1940年のドイツ軍司令部は自軍の戦車を戦車師団へと集中し、これらを戦略的な包囲のために使用し、彼らの進撃路をフランス軍の防衛線の中に打通した。そして海峡へと前進し、国家の兵站支援の中枢である、連絡線と補給路を切断する脅威を与えた。 このような攻撃に対処するには、機動できる対戦車戦力が予備に持たれるべきであり、攻撃に応じられるよう動かねばならなかった。フランス軍には戦略的な予備兵力が皆無だった。フランス軍の3個騎兵装甲師団(「Divisions Legeres Me'caniques」、軽機械化大隊)のように高度な機動力を持つ予備戦力はもちろんのこと、ドイツ機甲大隊との戦線において唯一の装甲部隊が組織されたが、これは既にネーデルラントへ送られていた。これはドイツ軍の穿貫に対抗する上で、決定的なフランス側の失敗である。フランス軍の4個装甲歩兵大隊は戦略的に充分な機動力を欠いていた。しかしこの作戦の後期には、戦車の攻撃に対して強い抵抗力を示した、新しい戦術が用いられた。これはハリネズミ防御と呼ばれた。しかし既に被った損失のため、フランス軍は全く反撃することができず、最終的にハリネズミ陣地はドイツ軍によって迂回された。
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