作戦の後
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かくして9日間の作戦は終わり、敵を防御陣地2箇所から追い出し、中部テネシー州の占有を完遂できた。1年のこの時期にかって無かったほどの異常な雨の中での行動だった。 —Maj. Gen. William Rosecrans タラホーマは多くの歴史家達が「輝かしい」方面作戦と考えるものである。エイブラハム・リンカーンは「シェルビービル、タラホーマおよびチャタヌーガでのブラッグ軍側面攻撃は、私が知っている中でも最も素晴らしい戦略の作品である」と書いた。北軍騎兵軍団指揮官デイビッド・スタンリーは、「もし士官学校の学生がモデルとなる作戦の研究をしたいと望むなら、かれにこの地図を与えて、方面作戦での日々の動きに対するローズクランズの命令を渡そう。この戦争でタラホーマ方面作戦ほど見事な戦略が実行された例は無い。」と書いた。北軍は最小の損失で南軍を中部テネシー州から追い出した。北軍の損失は570名(戦死83名、負傷473名、捕虜または不明13名)と報告された。ブラッグ軍に損失の報告書は無かった。その損失は「取るに足りない」彼は言った。しかし、北軍は主にハーディの軍団から1,634名の南軍兵を捕獲した。ブラッグがテネシーの山脈に乗り入れたとき、第1テネシー連隊従軍牧師であるチャールズ・クィンタード司祭に、「完全に負かされた」と言い、方面作戦は「「大きな惨害だった」と告げた。 ローズクランズはその方面作戦が違った状況にあれば受けたであろう大衆を上げての賞賛を得られなかった。作戦が終わった日に、ロバート・E・リー将軍はピケットの突撃を敢行させて、ゲティスバーグの戦いに敗北した。翌日、ビックスバーグ市はグラントの下に降伏した。陸軍長官スタントンはローズクランズに電報を打ち、「リー軍は倒した。グラントが勝った。今は貴方と貴方の高貴な軍隊は反逆者に最後の打撃を与えるチャンスだ。このチャンスを無視できるか?」と言った。ローズクランズはこの態度に憤りを覚え、「丁度今、ビックスバーグの陥落を報せ、リーの敗北を確認する貴方の嬉しい電報を受け取ったところだ。貴方はこの高貴な軍隊が中部テネシー州から反逆者を追い出したことを気付いていないように見える。...私はこの軍隊のためにそれが血の文字で書かれていないからといってこの大きな出来事を見落とすことが無いように願う。」と返信した。 ローズクランズはスタントンが奨励したように、即座にブラッグ軍を追撃し、「反逆者に最後の打撃を与える」ことはしなかった。停止して軍隊を再編し、山岳地に追撃を掛けるという難しい選択を検討した。作戦が再開されたとき、ブラッグ軍は一時的に敗北しただけであることが分かった。リーのバージニア軍から援軍を得て、ローズクランズ軍を9月のチカマウガの戦いで攻撃し、西部戦線では唯一の意義有る南軍の勝利を収め、ローズクランズ軍をチャタヌーガまで引き返させてそこを包囲した。
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作戦の後
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「1779年の無敵艦隊」の記事における「作戦の後」の解説
この侵略の試みはイギリスにとって脅威となり、特にジョン・ポール・ジョーンズの戦隊が東海岸に到着してから直ぐに各地の港への脅威を与えていた。海岸部の防御に大慌ての改良が加えられ、ドーバーのウェスタンハイツに最初の土木工事が行われた。ただし、その主要部分の造作はそれから間もないナポレオンによる侵略作戦に対応するものだった。またポーツマス港のジルキッカー砦も建設された。スペインにとってこの遠征は時間の過大な浪費以外のなにものにもならなかった。ジブラルタルに全力であたるのを妨げられた。ジブラルタル要塞は初期攻撃から1週間後には防御を強化され、終戦まで持ちこたえることになった。フランスにとっては、この遠征が大惨事だった。多くの艦船を海上に出し、数多い陸兵を何か月も乗船港で待たせていたので、その費用は莫大なものとなり、多くの優秀な水兵が病気で死んだ。ドルビリエールはフランスに戻ってから間もなくその職を辞した。フランスとスペインの艦隊は合同での作戦を続けたが、イギリス海軍に直接あたるよりも、孤立したイギリス守備隊に対する上陸部隊の護衛という使い道が多かった。例外と言えば、ジブラルタル包囲戦に参加して失敗したことと、1781年8月に海峡艦隊を追跡して成果を上げられなかったことだった。これは侵略計画との結びつきは無かった。フランス海軍は七年戦争の後で大きく改良されており、このアメリカ独立戦争ではスペインとは別に動いて多くの戦果を挙げた。
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「フィラデルフィア方面作戦」の記事における「作戦の後」の解説
イギリス軍がニューヨーク市に到着した直ぐ後、フランス艦隊がその港外に到着し、両軍の動きが慌しくなった。フランス軍と大陸軍はロードアイランドのニューポートにあったイギリス軍守備隊を襲うことにしたが、その最初の共同行動は有名な失敗に終わった。 クリントンはロンドンからの命令に従い、その軍隊の一部を西インド諸島に移し、チェサピーク湾からマサチューセッツに至る海岸部の町への襲撃計画を始めた。ニューヨーク市の周辺ではクリントン軍とワシントン軍が互いを監視し小競り合いを繰り返し、1779年のストーニーポイントの戦いや1780年のコネチカット農園の戦いなど時として大きな会戦が行われた。クリントンはフィラデルフィアを再度攻撃することも検討したが、この考えが結実する機会は無かった。 イギリス軍はまたケベック市からロイヤリストや同盟インディアンを使って広い範囲でフロンティアの戦争を始めた。イギリス軍とフランス軍は1778年から西インド諸島やインドで交戦に及び、1779年にスペインがフランスに就いて参戦したことで、戦争は地球規模の様相を帯びてきた。 1780年、イギリス軍は南部の植民地を支配化に置くために、サウスカロライナのチャールストンを占領することで南部戦線の作戦を開始した。しかしこの行動は最終的にヨークタウンでの降伏によって潰えることになった。
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作戦の後
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「ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦」の記事における「作戦の後」の解説
イギリス軍はニューヨーク港とその周辺の農業地帯を支配下に収め、ニューヨーク市とロングアイランドは1783年の終戦まで保持した。大陸軍はかなりの損失を出し、重要な物資を失ったが、ワシントンはその軍隊の中核を維持し、この戦争を終わらせかねないイギリス軍との決定的な対峙を避けることができた。トレントンとプリンストンでの大胆な攻撃と勝利によって主導権を取り戻し、軍隊の士気を上げた。ニューヨーク植民地のニューヨーク市周辺、ニュージャージーおよびコネチカットは戦争の残り期間に打ち続く抗争の舞台になった。 トレントンとプリンストンの戦いに関してハウがロンドンの上官に送った初期の報告書はその重大性を最小化しようとしており、トレントンの場合はラールを非難し、プリンストンの場合は防衛に成功したような印象を与えようとしていた。この報告に対してジョージ・ジャーメインを初め誰もが騙されたわけではなかった。ドイツのレオポルド・フィリップ・フォン・ハイスター将軍に宛てた手紙でジャーメインは、「(トレントンで)指揮を執った士官と、この不運が帰せられる者がその無分別で命を失った」と記していた。ハイスターは続いてその国王であるフリードリヒ2世 (ヘッセン=カッセル方伯)に報告しなければならず、1個旅団全体が失われただけではなく、16の連隊旗と6門の大砲も失われたと知らせた。この報せにフリードリヒは激怒し、ハイスターに帰郷を提案したとされている。事実ハイスターはその通りに行い、ヘッセンの軍隊指揮をヴィルヘルム・フォン・クニプハウゼンに渡した。フリードリヒはさらに1776年の事件に関する広範な査問も命じ、1778年から1782年まで査問が行われた。これらの査問によりこの方面作戦に関する特徴ある史料が生み出された。 ワシントンが戦いに勝ったという報せは重要なタイミングでパリにも到着した。駐フランスイギリス大使ストーモント卿はフランスの外務大臣ヴェルジェンヌ伯爵にフランスがアメリカの反乱者に与えていた財務と兵站の半ば秘密の支援に関して苦情を準備していた。ストーモントはアメリカ向けの物資がフランスの旗を掲げた船に積まれるようになるのを知った。それ以前はアメリカの旗を掲げた船に積まれていた。ストーモントはフランスの宮廷がその報せに著しく満足しており、フランスの外交的立場は大いに強化されたと記し、「ヴェルジェンヌ大臣はその心の中で敵対的であり、反逆者のの成功を切望していることは疑いが無い」とも記していた。
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