損失の報告
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 05:03 UTC 版)
「第二次ウィンチェスターの戦い」の記事における「損失の報告」の解説
北軍も南軍も損失に関するその公式記録報告書は実質的に同一だった。イーウェルは次のように報告した。 この勝利の戦果としては、大砲23門(ほとんどが施条砲)、捕虜4,000名、荷を積んだ台車300両、馬300頭以上、および大量の物品と軍需品である。 この捕虜の数はウィンチェスターで治療されていた北軍負傷兵全てを含んでいるように見える。イーウェルの地形学者、ジェデディア・ホッチキスは町の中の捕虜約2,000名を数え、ハーパーズ・フェリーに逃亡した者を約1,500名と推計し、南軍騎兵による追撃でさらに多くの捕虜ができたと推計していた。ミルロイが後にハーパーズ・フェリーに現れたとき、即座に逮捕された。シェンクがミルロイの逮捕が失効したと報告した直後に、副官の第18コネチカット歩兵連隊フレデリック・A・パーマー大尉は全部隊の広範で詳細な表を提出した。その要約は次の通りだった。 戦死:士官7名、兵士88名、負傷:士官12名、兵士336名、捕虜または不明:士官144名、兵士3,856名 イーウェルが捕虜4,000名と報告しているのに対し、北軍第8軍団の報告書では士官144名、兵士3,856名が捕虜または不明としていて、合計が合っている。パーマー大尉の要約では北軍損失合計が4,443名となった。部隊は第8軍団第2師団の第1、第2および第3旅団であり、独立した部隊も含んでいた。 ジョンソン師団だけでスティーブンソン補給庫の戦闘で3,500名の捕虜を捕まえており、これは全師団が道路を行軍中に夜襲されたということでは南北戦争でも唯一の大きな戦闘であるので驚くにはあたらない。ジョンソン将軍は「その双眼鏡で!」30人を捕虜に取り、「11本の連隊旗、175頭の馬およびあらゆる種類の武器と携行品」を抑えたと主張した。 損失の推計は少し低いものもある。アイヒャーは、南軍の損失が269名(戦死47名、負傷219名、不明3名)とし、北軍は3,801名(戦死95名、負傷348名、不明または捕虜3,358名)とした。記録における計数を難しくしているのは、ウィンチェスター市内の多くの病院で捕まった北軍兵の数を足していることである。 この2個師団と1個師団の対戦した戦闘における損失比は南軍269対北軍4,443となり、すなわち0.06と驚くべき数字である。これは南北戦争の中でもこの規模の戦闘で最も一方的な結果だった。南軍砲兵隊のロバート・スタイルズ少佐が、「このウィンチェスターの戦いは...北バージニア軍が挙げた成果の中でも傑作の一つである」と書いているのも不思議でない。
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