損失と戦闘の後
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「ローンジャックの戦い」の記事における「損失と戦闘の後」の解説
北軍のブラウナー大尉は、戦死43名、負傷154名、不明と捕虜が75名、損失率は34%と報告したが、この値は実際と比べて低すぎる。南軍のハンター大佐は北軍兵119名と南軍兵47名を埋葬したと報告したが、実際の損失は不明である。ハンターの報告には、他所で埋葬したと友人や家族が申告した南軍使者の未詳の数が入っていない。戦闘で戦死した北軍兵の点呼結果は、ウェイン・シュネッツァーによる記録に残されており、戦死者は65人で、少なくとも29人はローンジャックでの負傷により後に死んでいた。南軍の戦闘参加者と死者のリストは不完全だが、少なくとも55名は戦死とされ、他に4名が傷がもとで後に死んでいた。 コックレル大佐は大砲2門の場所を突き止め、戦場から排除してアーカンソー州まで戻した。その1門は後にホワイト川上のクィーンシティを航行不能にした砲弾を放ったとされている。この戦闘で戦場を保持したので、南軍新兵はかなりの量の武器を手に入れた。新兵のほぼ半分は当初武装していなかった。 この戦闘は後の陸軍長官(在任1891年-1893年)でアメリカ合衆国上院議員にもなったスティーブン・ベントン・エルキンズが、南北戦争で参加した唯一の戦闘だった。エルキンズはこの戦闘で見たことのために戦争を嫌悪するようになったと言われている。エルキンズは次の様に語っていた。 私は従軍した間に1つの戦闘を見た。ローンジャックの戦いである。それは実に恐ろしい戦闘だった。エモリー・S・フォスター大佐は北軍の連隊を指揮しており、上院議員フランシス・M・コックレルの兄弟に攻撃されたが、フォスターは、南軍が黒旗を掲げたゲリラの手先であり、慈悲の心を見せないと考えていた。それでフォスターは降伏を拒否し、その士官達の誰もが狙い撃ちされた。ゲリラは勝利に酔っていた。後に私は戦場に出かけて行き、流された血、水を求める叫びと死、衣服を剥がれた裸の体、防塁の代わりになった死馬、それらが私を戦争嫌いにさせた。私がいまこの偉大な政府の陸軍省の長官としてここにいるのは不思議な気がする。
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損失と戦闘の後
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「第一次インディペンデンスの戦い」の記事における「損失と戦闘の後」の解説
第一次インディペンデンスの戦いは北軍に344名の損失を出させた。南軍の損失は不明である。 インディペンデンスに駐在していた北軍兵の大半が捕虜になり、数少ない兵士の集団が逃亡できた。しかし南軍の勝利にも代償を伴い、経験を積んだ士官10名が死んだ。その中にはジョン・T・ヒューズ大佐がいた。またヘイズ大佐とトンプソン大佐も負傷した。南軍はその日の午後遅くに町を離れたが、数日間は近くに留まっていた。ヘイズは4日後に別の南軍部隊と協調して、ローンジャックに到着した北軍部隊を攻撃し、勝利した(ローンジャックの戦い)。 南軍はインディペンデンスで勝利したが、それを意義ある形勢にまで持って行けなかった。南軍はジャクソン郡地域を支配していたが、長くは続かなかった。 ビューエル中佐の敗北と、著名市民から攻撃が迫っていると警告されたものを聞き入れなかったことは広く非難された。戦いに先立つ11日間でブレッキンリッジ大尉がいかなるゲリラも見つけられなかったこと、さらに直ぐに降伏を望んだことは、不名誉なことと見なされた。両人は軍法会議に掛けられ、捕虜になった兵士は兵役解除された。2人の士官が部下の兵士と共に解任されたので、最終的に軍法会議からは何も得られなかった。 1864年6月3日、アックスライン大尉がヒックマンミルズの家に向かっている途中で、ゲリラに殺された(ジョージ・トッドの部隊だった可能性がある)。 1864年10月、同じインディペンデンスで、第二次インディペンデンスの戦いが起こった。これはスターリング・プライス将軍のミズーリ襲撃作戦の一部だった。プライスの部隊はその後のウェストポートの戦いで大敗した。
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