損失および戦いの後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 05:13 UTC 版)
「第一次レキシントンの戦い」の記事における「損失および戦いの後」の解説
この戦闘は大半が保護された陣地で戦われたので、損失は比較的少なかった。プライス軍は25名が戦死し、72名が負傷しただけだった。北軍は39名が戦死し、120名が負傷した。損失が小さかったことはマリガンの優れた塹壕戦術と、ハリスの麻の樽という思い付きに帰せられる。残った北軍守備隊全員が捕虜になった。 降伏した北軍兵は退陣した元ミズーリ州知事クレイボーン・F・ジャクソンの演説を聞かされた。ジャクソンは兵士たちが招待なしにミズーリ州に入って来て、州民に対する戦争を仕掛けたことを非難した。北軍兵はその後にプライス将軍から保釈されたが、仮釈放を拒んだマリガン大佐が例外だった。プライスは、戦闘中とその後に示された北軍指揮官の振る舞いと行為に感銘を受け、マリガンに馬と馬車を用意し、北軍前線の内側まで安全に護送するよう命じた。マリガンは後の1864年7月24日、バージニア州ウィンチェスター近くで起きた第二次カーンズタウンの戦いで戦死した。 この戦闘の損失の中では、ミズーリ第27騎馬歩兵連隊指揮官ベンジャミン・W・グロバー中佐が太ももをマスケット銃弾で負傷していた。グロバーはその傷がもとで10月31日に死んだ。
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