損失と直後の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 01:44 UTC 版)
ショーショーニー族の死亡者数は大変大きなものだったが、幾らかの生存者もいた。最も有名なのはサグウィッチ酋長であり、残った生存者を集めて、そのバンドを生き残らせることができた。サグウィッチ酋長自身は手に2発の銃弾を受け、馬に乗って逃げ出したが、乗っていた馬も撃たれて死んだ。最終的に谷を駆け下り、ある熱水泉の近くでベア川に転げ込み、夜が来るまで木片に掴まって浮いていた。 サグウィッチの息子、ベシャップ・ティンビンブーは少なくとも7発の銃弾を浴びたがなんとかして生き残り、家族に救出されるまで生きていた。隊の他のメンバーはベア川のヤナギの木立に隠れ、あるいは死んだ振りをして生き延びた。アメリカ軍士官が戦いは終わったと考えた後に、兵士達はフランクリンに近い一時的な宿営地に戻った。このことで、サグウィッチ酋長やショーショーニー族の生き残りは負傷者を回収し、まだ生きている者のために火をおこすことができた。 フランクリンの住民はその夜負傷した兵士達のために自分達の家を開放し、他の兵士達が寒さに曝されるのを避けるために教会の集会所に毛布や干草を持ち込んだ。コナーは幾人かのフランクリン住民を雇って橇を引っ張らせ、負傷兵をソルトレイクシティに連れ帰らせた。 カリフォルニア志願兵隊は5人の士官を含め27名を失った。ショーショーニー族の部隊は200名ないし400名を失った。アメリカ軍当局は死者272名と報告した。デンマークからの移民ハンス・ヤスパーソンが1911年に書いた自伝では、死体の間を歩いて493体のショーショーニー族の死体を数えたと主張している。 1918年、サグウィッチの息子、フランク・ティンビンブー・ワーナーは「当時いた者の半分は逃げた」と言い、156名が殺されたとしていた。さらに2人の兄弟と1人の義理の姉妹は「生きており」、多くの者は後にユタ入植地のワシャキー、ウィンドリバー・カントリーのホール砦保留地など他の場所で生活したとも付け加えた。 多くのインディアンは冬の間その幼い子供達を白人入植者のところに置いて行くようになり、彼らの何人かは実際にモルモン教徒の家族となって、キャッシュ・バレー初期に他の家族と一緒に写った写真が残されている。
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