トレントンとプリンストン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 06:45 UTC 版)
「チャールズ・コーンウォリス」の記事における「トレントンとプリンストン」の解説
イギリス軍によるニューヨーク方面作戦とその後のニュージャージー占領後、コーンウォリスは軍隊が冬季宿営に入るために、イングランドへ戻る準備をしていた。しかし12月に出航準備をしているときに、ワシントンがトレントンを急襲した。このために帰国を取り消し、ハウからワシントン軍に対処するよう命じられた。当時クリントンはイギリスに居たので、コーンウォリスはハウの下に直接就いた。 コーンウォリスはニュージャージー中に散らばっていた守備隊を集めて、トレントンに移動させた。1777年1月2日、アッサンピンク・クリーク近くに陣を取ったワシントン軍と対峙した。その日の午後遅くに起こった第二次トレントンの戦いでは、ワシントン軍陣地を攻撃したがうまく行かなかった。翌日もワシントン軍攻撃を続けるために軍隊に準備させた。しかしその夜、ワシントン軍は抜け出してプリンストンのイギリス軍陣地を攻撃した。大陸軍がコーンウォリス軍との会戦をうまく避けたことについて、ワシントンがキャンプの火を焚かせ動きがあるように音を出させ続けるという策略を用いたことが功を奏したとされる一方で、コーンウォリスが大陸軍の動きを探る偵察部隊を送っていなかったことも災いした。 プリンストンの戦い後、ワシントン軍は北のモリスタウンに向い、イギリス軍はニューブランズウィックとパースアンボイを中心に守る冬季宿営に入った。この冬の間、大陸軍が物資を得られないようにし、自軍の補給のために略奪戦争と言われる襲撃に参加した。早春4月13日、コーンウォリスはバウンドブルックでベンジャミン・リンカーンの守備隊を攻撃して成功した。しかし、この成功も長続きせず、ハウはフィラデルフィアに対する方面作戦のためにその軍隊をニューヨーク市に戻すことに決めた。
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