第三〇二海軍航空隊
第三〇二海軍航空隊
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帰国して戦傷が癒えたあとは、厚木海軍航空隊木更津派遣隊で錬成員の指導にあたった。1944年(昭和19年)3月1日、第三〇二海軍航空隊が開隊。小園がその司令官に任命されたが、小園は早速手を回して遠藤を引っ張り、所属していた木更津派遣隊はそのまま第三〇二海軍航空隊に編入されて、派遣隊隊長であった児玉秀雄大尉とともに分隊長となった。アリューシャン方面の戦いに勝利してアリューシャン列島を確保したアメリカ軍は、千島列島の占守島や幌筵島に少数機ながら航空機を侵入させており、北東方面の防空を担当する第五十一航空戦隊司令部から第三〇二海軍航空隊への支援要請を聞きつけた遠藤は、自分を含むラバウル帰りのベテランで支援に行きたいと申し出たが、開隊したばかりの第三〇二海軍航空隊の戦力充実を最優先と考えていた小園は遠藤の申し出を「古い者(ベテラン)ばかり連れていく」と却下し、自ら、前原真信飛曹長や甘利洋司飛曹長など、「月光」では訓練途中ながら実戦経験は豊富な古参搭乗員を人選して派遣している。 1944年5月25日に、小園は遠藤らを指揮する第三〇二海軍航空隊第2飛行隊長に、第301海軍航空隊戦闘316飛行隊隊長を更迭されていた美濃部正大尉を任命したが、美濃部はB-29邀撃任務の指揮は遠藤に任せきりにして、自分の理想であった夜間戦闘機による夜襲部隊の編成に注力した。1944年7月4日に硫黄島と父島を襲撃したアメリカ軍機動部隊に対して、その夜襲戦術を始めて活かす機会に恵まれ、美濃部は、7月5日未明に索敵に月光6機、攻撃隊として月光1機と零戦2機の3機小隊6個の合計18機(含む偵察機で24機)を出撃させたが、アメリカ軍機動部隊とは接触できずに、2機が未帰還、2機が大破するという損害を被り、初戦にて夜間の洋上進攻の困難さを思い知らされることとなり、美濃部は第302海軍航空隊では見るべき成果を挙げることもできずに、在任わずか1か月半となる1944年7月10日にフィリピンの第一航空艦隊第一五三海軍航空隊戦闘901飛行隊長に異動になった。美濃部の理想はのちに芙蓉部隊編制により実現することとなった。 1944年6月15日、中国の成都基地から八幡製鐵所を主目的としてB-29による日本初空襲が行われた(八幡空襲)。B-29は75機が出撃し、そのうち47機が八幡を爆撃した。日本軍は陸軍航空隊飛行第4戦隊の二式複座戦闘機「屠龍」8機を迎撃に出撃させた。やがて1時11分に、高度4,000mの高度で北九州上空に現れたB-29に対して、飛行第4戦隊の屠龍が関門海峡と八幡上空で攻撃を仕掛けたが、B-29を想定して猛訓練を繰り返してきたにも関わらず、B-29の速度が想定よりはるかに速く、攻撃にもたつくとすぐに引き離されてしまい、なかなか捕捉することができず苦戦を強いられた。空襲後に撃墜した2機のB-29の残骸を回収して調査したところ、想定よりも高性能であることが判明し、北部九州の防空強化に迫られた海軍の佐世保鎮守府は独自の夜間戦闘機隊の編成に加えて、第三〇二海軍航空隊へ応援を要請し、「月光」が大村航空基地に派遣されることとなった。北方への遠藤の派遣は拒否した小園であったが、今回は、自ら遠藤を派遣隊に指名、ほかの搭乗員5名と整備員、「月光」3機からなる派遣隊の隊長として7月上旬に大村に派遣した。大村では佐世保海軍航空隊の分遣隊(のちの第三五二海軍航空隊)の指導にもあたり、B-29が来襲するのを待ち受けた。
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