第三航空隊
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第三航空隊(だい3こうくうたい)および1942年(昭和17年)11月1日に改称した第二〇二海軍航空隊(だい202かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。陸上攻撃機隊として編成されたが、太平洋戦争直前に戦闘機隊に改編された。所属機識別章は「X」。
沿革
三空
1941年4月1日、高雄海軍航空隊の九六式陸上攻撃機3機をもって開隊され、第十一航空艦隊第二十三航空戦隊所属。直後よりA作業(敵地隠密偵察)に着手。高雄発ルソン島、パラオ諸島発ニューギニア、サイパン島発グァム島の偵察に従事。7月頃、ハノイに進出。先発陸攻隊と共同で援蒋ルート爆撃に従事。8月31日、陸攻隊解散。隊員は高雄空・鹿屋海軍航空隊に転出。
1941年9月1日、鹿屋飛行場で戦闘機隊開隊(戦闘機60・偵察機8)。太平洋戦争開戦時はフィリピン攻略戦に参加。開戦時の空襲に関して、かつて零戦が成都攻撃を行った際、420浬進出して空戦したが、なお燃料に余裕があった経験から、約500浬の進出も可能として台湾からのマニラ周辺への直接攻撃を3空が提案して採用された[1]。
12月8日、53機でルソン島イバ飛行場を強襲。12月10日、再度ルソン島を強襲、空中戦で44機撃墜を報告。12月下旬、ミンダナオ島ダバオ飛行場に進出。タラカン島上陸占領作戦を支援。
1942年1月中旬、セレベス島メナド飛行場に進出。アンボン攻略作戦を支援。1月下旬、セレベス島ケンダリーに進出。チモール島攻略作戦を支援。以後、ケンダリーおよびバリクパパンを拠点に制空に従事。2月3日には航空戦で39機撃墜を報告。3月3日、オーストラリア軍ブルーム基地・ウィンダム基地を強襲。3月4日、高雄空のダーウィン爆撃開始。護衛随伴に従事。以後、高雄空の護衛および敵機迎撃に従事。
8月23日、中攻直掩中に迎撃に遭い、中隊長を含む4機を喪失。9月17日、ガダルカナル島の戦いに応じるため、21機をラバウルに派遣、台南空隷下で防空に従事。
二〇二空
1942年11月1日、「第二〇二海軍航空隊」に改称。第二五二海軍航空隊がラバウルに到着し、派遣隊は原隊に復帰した。
1943年3月2日、ダーウィン爆撃再開。護衛随伴に従事。オーストラリア空軍スピットファイアとの初の戦闘が発生した。9月20日、第十三航空艦隊新編、二十三航戦を編入。
1944年3月4日、第十四航空艦隊第二十二航空戦隊に転籍。トラック島に転戦。以後、メレヨン島・ポナペ島・ペリリュー島に分散配置。防空に従事。4月20日、トラック島に敵機襲来。6機で迎撃。5月5日 十四航艦の全戦力を第一航空艦隊に移管。この間にも、散発的な空襲・航空戦で消耗。6月2日、渾作戦発動。ペリリューに集結。6月13日、あ号作戦発動。参戦し壊滅。7月10日、解隊。他の在ペリリュー派遣隊と同様に、残留した隊員はダバオに退避し、来るべきフィリピン上陸戦に備えた主力航空隊となる第二〇一海軍航空隊の再編要員に充てられた。
使用機種
歴代司令
- 亀井凱夫 大佐:1941年4月10日 -
- 梅谷薫 大佐:1942年8月25日 -
- 岡村基春 中佐:1942年10月5日 -
- 内田定五郎 中佐:1942年9月15日 -
- 根来茂樹 中佐:1944年3月16日 - 1944年7月10日解隊
脚注
- ^ 戦史叢書95海軍航空概史166頁
参考文献
- 『日本海軍編制事典』(芙蓉書房出版 2003年)
- 『航空隊戦史』(新人物往来社 2001年)
- 『日本海軍航空史2』(時事通信社 1969年)
- 『戦史叢書 海軍航空概史』(朝雲新聞社 1976年)
- 『戦史叢書 比島・マレー方面海軍進攻作戦』(朝雲新聞社 1969年)
- 『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦2』(朝雲新聞社 1973年)
- 『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』(朝雲新聞社 1972年)
- 『連合艦隊海空戦戦闘詳報別巻1』(アテネ書房 1996年)
関連項目
第三航空隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 07:57 UTC 版)
1941年(昭和16年)9月1日、第三航空隊副長兼飛行長。10月、海軍中佐。 太平洋戦争開戦でフィリピン攻略戦に参加。10月初旬の鹿屋図上演習において第3航空隊は零戦によるマニラ周辺への直接攻撃を提案。支那事変で零戦による遠距離空襲の成功経験者の横山保大尉の「台湾から空襲は可能で着艦訓練をする余裕がないのでやめるように」という意見を取り上げ、計画していた小空母を使用した戦闘機隊の効率の悪さ、戦闘機と陸上攻撃機の協同の難から柴田が提案した。支那事変の時、零戦は430海里進攻の経験があり燃料消費量を調整すれば500海里も可能と主張する。しかし第十一航空艦隊参謀長・大西瀧治郎は「君の意見は飛行実験部的意見にすぎない」と一蹴し、司令部も実績がない、作戦を変更するには資料不足と却下した。そのため第三航空隊は航続力延伸の研究を開始する。プロペラのピッチを増し回転数を落とし燃料の混合比を薄くし節減を計り、500海里往復の空戦を研究訓練する。亀井凱夫司令が意見書として10月末に第十一航空艦隊に決心させ、比島航空撃滅戦や進攻作戦に貢献した。意見書は空戦、射撃訓練の時間さえ十分ではないので着艦訓練は不可能、空母使用はやめるべきという内容で提出され大西は作成者の柴田に直接読むように許し、「わかった。必ず山本(五十六)長官に納得させる。以後空戦、夜間編隊発進、遠距離侵攻に必要な訓練を行え」と内命した。柴田はこの時ほど人間大西の偉大さを感じたことはないという。 1942年(昭和17年)8月22日、呉鎮守府付被仰。徳島航空隊飛行長兼教官、姫路航空隊(仮称)・高知航空隊(仮称)設立準備委員。1943年(昭和18年)3月、大分航空隊飛行長。
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