第三航空隊とは? わかりやすく解説

第三航空隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/13 06:26 UTC 版)

第三航空隊(だい3こうくうたい)および1942年(昭和17年)11月1日に改称した第二〇二海軍航空隊(だい202かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。陸上攻撃機隊として編成されたが、太平洋戦争直前に戦闘機隊に改編された。所属機識別章は「X」。

沿革

三空

1941年4月1日、高雄海軍航空隊九六式陸上攻撃機3機をもって開隊され、第十一航空艦隊第二十三航空戦隊所属。直後よりA作業(敵地隠密偵察)に着手。高雄発ルソン島パラオ諸島ニューギニアサイパン島グァム島の偵察に従事。7月頃、ハノイに進出。先発陸攻隊と共同で援蒋ルート爆撃に従事。8月31日、陸攻隊解散。隊員は高雄空・鹿屋海軍航空隊に転出。

1941年9月1日、鹿屋飛行場で戦闘機隊開隊(戦闘機60・偵察機8)。太平洋戦争開戦時はフィリピン攻略戦に参加。開戦時の空襲に関して、かつて零戦が成都攻撃を行った際、420浬進出して空戦したが、なお燃料に余裕があった経験から、約500浬の進出も可能として台湾からのマニラ周辺への直接攻撃を3空が提案して採用された[1]

12月8日、53機でルソン島イバ飛行場を強襲。12月10日、再度ルソン島を強襲、空中戦で44機撃墜を報告。12月下旬、ミンダナオ島ダバオ飛行場に進出。タラカン島上陸占領作戦を支援。

1942年1月中旬、セレベス島メナド飛行場に進出。アンボン攻略作戦を支援。1月下旬、セレベス島ケンダリーに進出。チモール島攻略作戦を支援。以後、ケンダリーおよびバリクパパンを拠点に制空に従事。2月3日には航空戦で39機撃墜を報告。3月3日、オーストラリアブルーム基地・ウィンダム基地を強襲。3月4日、高雄空のダーウィン爆撃開始。護衛随伴に従事。以後、高雄空の護衛および敵機迎撃に従事。

8月23日、中攻直掩中に迎撃に遭い、中隊長を含む4機を喪失。9月17日、ガダルカナル島の戦いに応じるため、21機をラバウルに派遣、台南空隷下で防空に従事。

二〇二空

1942年11月1日、「第二〇二海軍航空隊」に改称。第二五二海軍航空隊がラバウルに到着し、派遣隊は原隊に復帰した。

1943年3月2日、ダーウィン爆撃再開。護衛随伴に従事。オーストラリア空軍スピットファイアとの初の戦闘が発生した。9月20日、第十三航空艦隊新編、二十三航戦を編入。

1944年3月4日、第十四航空艦隊第二十二航空戦隊に転籍。トラック島に転戦。以後、メレヨン島・ポナペ島・ペリリュー島に分散配置。防空に従事。4月20日、トラック島に敵機襲来。6機で迎撃。5月5日 十四航艦の全戦力を第一航空艦隊に移管。この間にも、散発的な空襲・航空戦で消耗。6月2日、渾作戦発動。ペリリューに集結。6月13日、あ号作戦発動。参戦し壊滅。7月10日、解隊。他の在ペリリュー派遣隊と同様に、残留した隊員はダバオに退避し、来るべきフィリピン上陸戦に備えた主力航空隊となる第二〇一海軍航空隊の再編要員に充てられた。

使用機種

歴代司令

  • 亀井凱夫 大佐:1941年4月10日 -
  • 梅谷薫 大佐:1942年8月25日 -
  • 岡村基春 中佐:1942年10月5日 -
  • 内田定五郎 中佐:1942年9月15日 -
  • 根来茂樹 中佐:1944年3月16日 - 1944年7月10日解隊

脚注

  1. ^ 戦史叢書95海軍航空概史166頁

参考文献

  • 『日本海軍編制事典』(芙蓉書房出版 2003年)
  • 『航空隊戦史』(新人物往来社 2001年)
  • 『日本海軍航空史2』(時事通信社 1969年)
  • 『戦史叢書 海軍航空概史』(朝雲新聞社 1976年)
  • 『戦史叢書 比島・マレー方面海軍進攻作戦』(朝雲新聞社 1969年)
  • 『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦2』(朝雲新聞社 1973年)
  • 『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』(朝雲新聞社 1972年)
  • 『連合艦隊海空戦戦闘詳報別巻1』(アテネ書房 1996年)

関連項目


第三航空隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 07:57 UTC 版)

柴田武雄」の記事における「第三航空隊」の解説

1941年昭和16年9月1日、第三航空隊副長飛行長。10月海軍中佐太平洋戦争開戦フィリピン攻略戦参加10月初旬鹿屋図上演習において第3航空隊零戦によるマニラ周辺への直接攻撃提案支那事変零戦による遠距離空襲成功経験者横山保大尉の「台湾から空襲は可能で着艦訓練をする余裕がないのでやめるように」という意見取り上げ計画していた小空母を使用した戦闘機隊の効率悪さ戦闘機陸上攻撃機協同の難から柴田提案した支那事変の時、零戦は430海里進攻経験があり燃料消費量調整すれば500海里も可能と主張する。しかし第十一航空艦隊参謀長大西瀧治郎は「君の意見飛行実験部意見にすぎない」と一蹴し司令部実績がない、作戦変更するには資料不足と却下した。そのため第三航空隊は航続力延伸研究開始するプロペラのピッチ増し回転数落とし燃料混合比薄く節減計り500海里往復空戦研究訓練する亀井凱夫司令意見書として10月末に第十一航空艦隊決心させ、比島航空撃滅戦や進攻作戦貢献した意見書空戦射撃訓練時間さえ十分ではないので着艦訓練不可能、空母使用はやめるべきという内容提出され大西作成者柴田直接むように許し、「わかった。必ず山本五十六長官納得させる以後空戦夜間編隊発進遠距離侵攻必要な訓練行え」と内命した。柴田はこの時ほど人間大西偉大さ感じたことはないという。 1942年昭和17年8月22日呉鎮守府付被仰。徳島航空隊飛行長兼教官姫路航空隊仮称)・高知航空隊仮称設立準備委員1943年昭和18年3月、大分航空隊飛行長。

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