第三航空隊とは? わかりやすく解説

第三航空隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/08 22:08 UTC 版)

第三航空隊(だい3こうくうたい)および1942年(昭和17年)11月1日に改称した第二〇二海軍航空隊(だい202かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。陸上攻撃機隊として編成されたが、太平洋戦争直前に戦闘機隊に改編された。所属機識別章は「X」。


  1. ^ 戦史叢書95海軍航空概史166頁


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第三航空隊

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柴田武雄」の記事における「第三航空隊」の解説

1941年昭和16年9月1日、第三航空隊副長飛行長。10月海軍中佐太平洋戦争開戦フィリピン攻略戦参加10月初旬鹿屋図上演習において第3航空隊零戦によるマニラ周辺への直接攻撃提案支那事変零戦による遠距離空襲成功経験者横山保大尉の「台湾から空襲は可能で着艦訓練をする余裕がないのでやめるように」という意見取り上げ計画していた小空母を使用した戦闘機隊の効率悪さ戦闘機陸上攻撃機協同の難から柴田提案した支那事変の時、零戦は430海里進攻経験があり燃料消費量調整すれば500海里も可能と主張する。しかし第十一航空艦隊参謀長大西瀧治郎は「君の意見飛行実験部意見にすぎない」と一蹴し司令部実績がない、作戦変更するには資料不足と却下した。そのため第三航空隊は航続力延伸研究開始するプロペラのピッチ増し回転数落とし燃料混合比薄く節減計り500海里往復空戦研究訓練する亀井凱夫司令意見書として10月末に第十一航空艦隊決心させ、比島航空撃滅戦進攻作戦貢献した意見書空戦射撃訓練時間さえ十分ではないので着艦訓練不可能、空母使用はやめるべきという内容提出され大西作成者柴田直接むように許し、「わかった。必ず山本五十六長官納得させる以後空戦夜間編隊発進遠距離侵攻必要な訓練行え」と内命した。柴田はこの時ほど人間大西偉大さ感じたことはないという。 1942年昭和17年8月22日呉鎮守府付被仰。徳島航空隊飛行長兼教官姫路航空隊仮称)・高知航空隊仮称設立準備委員1943年昭和18年3月、大分航空隊飛行長。

※この「第三航空隊」の解説は、「柴田武雄」の解説の一部です。
「第三航空隊」を含む「柴田武雄」の記事については、「柴田武雄」の概要を参照ください。

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