第三航空隊
第三航空隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 07:57 UTC 版)
1941年(昭和16年)9月1日、第三航空隊副長兼飛行長。10月、海軍中佐。 太平洋戦争開戦でフィリピン攻略戦に参加。10月初旬の鹿屋図上演習において第3航空隊は零戦によるマニラ周辺への直接攻撃を提案。支那事変で零戦による遠距離空襲の成功経験者の横山保大尉の「台湾から空襲は可能で着艦訓練をする余裕がないのでやめるように」という意見を取り上げ、計画していた小空母を使用した戦闘機隊の効率の悪さ、戦闘機と陸上攻撃機の協同の難から柴田が提案した。支那事変の時、零戦は430海里進攻の経験があり燃料消費量を調整すれば500海里も可能と主張する。しかし第十一航空艦隊参謀長・大西瀧治郎は「君の意見は飛行実験部的意見にすぎない」と一蹴し、司令部も実績がない、作戦を変更するには資料不足と却下した。そのため第三航空隊は航続力延伸の研究を開始する。プロペラのピッチを増し回転数を落とし燃料の混合比を薄くし節減を計り、500海里往復の空戦を研究訓練する。亀井凱夫司令が意見書として10月末に第十一航空艦隊に決心させ、比島航空撃滅戦や進攻作戦に貢献した。意見書は空戦、射撃訓練の時間さえ十分ではないので着艦訓練は不可能、空母使用はやめるべきという内容で提出され大西は作成者の柴田に直接読むように許し、「わかった。必ず山本(五十六)長官に納得させる。以後空戦、夜間編隊発進、遠距離侵攻に必要な訓練を行え」と内命した。柴田はこの時ほど人間大西の偉大さを感じたことはないという。 1942年(昭和17年)8月22日、呉鎮守府付被仰。徳島航空隊飛行長兼教官、姫路航空隊(仮称)・高知航空隊(仮称)設立準備委員。1943年(昭和18年)3月、大分航空隊飛行長。
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