海軍兵学校卒業後、航空隊に配属
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「黒沢丈夫」の記事における「海軍兵学校卒業後、航空隊に配属」の解説
1932年(昭和7年)4月に海軍兵学校に第63期生として入隊した。1936年(昭和11年)、兵学校を卒業し、アメリカ合衆国のニューヨークまでの遠洋航海に出た。この時黒沢は、日米の国力の差に圧倒され、アメリカ合衆国の生活の豊かさを嫌というほど思い知ったという。 帰国後、巡洋艦「那智」・駆逐艦「夕霧」乗組を経て、1937年(昭和12年)9月に第29期飛行学生として霞ヶ浦海軍航空隊に転じた。航空隊を志願した動機は、兵学校時代の成績の悪さに反省し、さぼれない環境に身を置きたかったからだと言う。1938年(昭和13年)5月、佐伯海軍航空隊に移り戦闘機操縦士としての訓練を受けたのち、11月、第十二航空隊に配属され漢口に着任した。 当時の戦況は、中国空軍主力は奥地の重慶まで退き、12空に配備された九六式艦上戦闘機(96艦戦)では航続距離が短く、そこまで攻撃できなかった。空中戦は発生せず、黒沢らは戦闘機に爆弾を積んで、宜昌などへの爆撃に従事した。1939年(昭和14年)9月、霞ヶ浦空の教官として内地に帰還したが、11月に訓練中の事故で入院することになる。 1940年(昭和15年)11月、新設された元山海軍航空隊へ分隊長として転任し、翌1941年(昭和16年)4月には再び漢口へと進出した。しかし装備戦闘機は相変わらず航続距離の短い96艦戦であり、同じ漢口に居た零式艦上戦闘機(零戦)装備した12空の活躍を横目に、上空哨戒などの任務を黙々とこなした。9月に元山空戦闘機隊は、鹿屋で編成されたばかりの第三航空隊に編入を命ぜられた。3空は台湾の高雄へ本拠を移した。対米英戦を控えて3空は、航続距離を延ばすなどの訓練を行った。地上銃撃訓練では黒沢の成績が搭乗員中一番だったので、地上銃撃隊隊長を任されることになった。
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