海軍兵学校卒業まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 23:30 UTC 版)
神奈川県横須賀市生まれ。横山家は高知県で農業を営んでいたが長男であった父・横山傳は海軍兵学校(20期)に進み、日清戦争及び日露戦争に出征。黄海海戦で、第三艦隊参謀(海軍少佐)として戦死した。母は黒岩家の出身で、夫の死後は高知に戻り洗礼を受けクリスチャンとなった。当時の遺族扶助料は僅少で生活は厳しかったという。 父の母校である高知県立海南中学校に進み、5年生の中途で海軍兵学校に入校(47期)。席次は151名中36番であった。兵学校の入試は海南中学で行われたが、試験官は父の兵学校教官時代の教え子であり、また父が戦死した際、遺体の世話をした人物であった。同期生に光延東洋少将、山本善雄少将、城英一郎少将らがいる。校長は鈴木貫太郎であった。1919年 (大正8年) 卒業。卒業時の席次は115名中7番で恩賜手前の優秀な成績であった。
※この「海軍兵学校卒業まで」の解説は、「横山一郎」の解説の一部です。
「海軍兵学校卒業まで」を含む「横山一郎」の記事については、「横山一郎」の概要を参照ください。
海軍兵学校卒業まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 15:08 UTC 版)
広島県広島市出身。代々広島藩の上士の家系。広島高等師範学校附属中学校(現:広島大学附属中学校・高等学校)を卒業し、1917年(大正6年)江田島の海軍兵学校(48期)に進んだ。卒業直前に、宮中御内儀として明治天皇の皇后(昭憲皇太后)に仕えた叔母マチと養子縁組した。同期に井上良雄少将、加藤良之助少将、神重徳少将らがいる。1920年(大正9年)7月、同校を卒業し、海軍少尉候補生として、軍艦「磐手」にて7カ月半の練習艦隊遠洋航海(寄港地:江田内(江田島)~鳥羽~呉~横須賀~鳥羽~基隆~馬公~香港~シンガポール~コロンボ~ダーバン~ケープタウン~リオデジャネイロ~サントス~モンテビデオ~バイアブランカ~ブンタアレナス~タルカワーノ~バルパライソ~イキーケ~カヤオ~タヒチ~トラック~サイパン~母島~父島~横須賀)。なお、後に五・一五事件の黒幕とも言われ、満州で同時期に活動することになる小林省三郎中佐(当時)が磐手副長として乗艦しており、佐々木と小林はこの航海で邂逅した。
※この「海軍兵学校卒業まで」の解説は、「佐々木丙二」の解説の一部です。
「海軍兵学校卒業まで」を含む「佐々木丙二」の記事については、「佐々木丙二」の概要を参照ください。
- 海軍兵学校卒業までのページへのリンク