訓練中の事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 04:44 UTC 版)
こうした問題を背景として、1989年(平成元年)ごろから現在のT-2によるブルーインパルスの後継チームの検討が始まっており、防衛庁の1991年度(平成3年度)予算案では「戦技研究班向け」として6機のT-4が含まれていた。 しかし、1991年7月4日、金華山沖で訓練をしていた4機のうち2機が墜落するという事故が発生した。原因は海霧の中で編隊長機が空間識失調(バーディゴ)に陥り、編隊が左に傾いたのが原因とされた。しかし、この当時の編隊長は曲技飛行チームの中で孤立した状態にあった こと、また編隊長は1979年(昭和54年)10月に第21飛行隊に異動となってから12年もの間異動がなかった こともあり、前述の任期の問題が顕在化した事故とも考えられた。 ブルーインパルスは約1年間ほど飛行自粛となった。訓練および運用規定の見直しを行なった上で、1992年(平成4年)8月23日の松島基地航空祭から展示飛行を再開した。なお、この時点では4機での展示飛行であった。 この時期には既にT-4による新しいブルーインパルスの導入は確定しており、同年10月には第4航空団第21飛行隊内に「T-4準備班」が発足していた。このため、航空自衛隊の中でも、ソロ要員の養成が間に合わず、機体の補充も難しいという理由から、6機体制へ戻すことについては消極的だった。しかし、ブルーインパルスの関係者は「T-2によるブルーインパルスの最後は6機で飾りたい」と考え、訓練時には通常仕様のT-2を使用するなどして6機体制での展示飛行を実施することがあった。新規に要員の養成も行われ、1994年(平成6年)には通常通りの展示飛行が再開された。同年8月10日には三沢基地航空祭においてサンダーバーズとの競演も実現した。この時に作成したパッチで、ロゴの無断使用をサンダーバーズから諭されたというエピソードがある。 一方、T-4による新しいブルーインパルスの準備も進められ、T-2によるブルーインパルスは1995年(平成7年)で活動を終了することになった。最後の展示飛行となったのは同年12月3日に行われた浜松基地航空祭で、T-2ブルーインパルスとしては通算175回目の展示飛行だった。なお、1982年(昭和57年)の墜落事故以降、浜松基地航空祭では「浜松スペシャル」と題した「水平飛行系演技」のみとされており、この最終展示飛行も「水平飛行系演技」のみで締めくくられた。訓練飛行は1995年12月8日が最後となり、同年12月22日付で第4航空団第21飛行隊内の戦技研究班は解散した。
※この「訓練中の事故」の解説は、「ブルーインパルス」の解説の一部です。
「訓練中の事故」を含む「ブルーインパルス」の記事については、「ブルーインパルス」の概要を参照ください。
- 訓練中の事故のページへのリンク