任期の問題とは? わかりやすく解説

任期の問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 04:44 UTC 版)

ブルーインパルス」の記事における「任期の問題」の解説

展示飛行再開した1984年昭和59年)には8回、翌1985年昭和60年)には年間18回の展示飛行を行う など、事故後のブルーインパルス順調に展示飛行繰り返していた。1990年平成2年4月1日には国際花と緑の博覧会開会式上空会場の上空に全長20kmにも及ぶ巨大な花マーク保有する9機すべてを使って描き同年6月3日岐阜基地航空祭ではT-2ブルーインパルスとしては100回目となる展示飛行行い表面的に順調だった一方ブルーインパルス広報活動一環ではあったが、この頃までは隊員一般市民接す機会があまりなかった。これは「パイロット映画スターでも何でもない」「いい気になっていたら事故起こす」という考えがあったことによる。しかし、1986年昭和61年)からは市民との交流前向きな取り組み開始され航空祭ではパイロットサイン会行なわれるようになった。 しかし、こうしてブルーインパルスとしての活動活発になるにつれて問題発生していた。 ブルーインパルスパイロット教官兼務しており、これはF-86F時代変わっていなかった。このためアクロバット飛行訓練時間十分に確保できず、結果的にブルーインパルスへの在籍期間長くなった。これは実働部隊TAC部隊)から長期間離脱するということになり、戦闘機パイロットにとっては好ましい状況ではなかった。また、航空祭時期ともなれば「木曜日金曜日に展開のため他の基地移動土休日航空祭展示飛行こなして松島基地帰還」というスケジュールとなり、残る月曜から水曜3日間でアクロバット飛行訓練ともに教官としての業務もこなさなければならなかった。 さらに、T-2ブルーインパルス活動開始する少し前の1981年昭和56年12月17日には、より実戦的空中戦教育を行うための組織として、築城基地飛行教導隊発足していた。このような状況では、「戦技研究班」と称しつつアクロバット飛行専門であるブルーインパルス希望するパイロット少なくなっていた。 その一方で1980年代後半には、自衛隊中途退職して民間航空会社転職するパイロット増えあまりに退職者が多いためにスクランブル待機勤務間隔短くなるなど、実任務にも支障が出る状況になっていた。ブルーインパルスでさえ、1990年3月にはパイロット半数転出退職となり、9ヶ月ほどの間は6機体制での演技不可能になっていた。

※この「任期の問題」の解説は、「ブルーインパルス」の解説の一部です。
「任期の問題」を含む「ブルーインパルス」の記事については、「ブルーインパルス」の概要を参照ください。

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