任期の問題
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展示飛行を再開した1984年(昭和59年)には8回、翌1985年(昭和60年)には年間18回の展示飛行を行う など、事故後のブルーインパルスは順調に展示飛行を繰り返していた。1990年(平成2年)4月1日には国際花と緑の博覧会の開会式上空で会場の上空に全長20kmにも及ぶ巨大な花のマークを保有する9機すべてを使って描き、同年6月3日の岐阜基地航空祭ではT-2ブルーインパルスとしては100回目となる展示飛行を行い、表面的には順調だった。 一方、ブルーインパルスは広報活動の一環ではあったが、この頃までは隊員と一般市民が接する機会があまりなかった。これは「パイロットは映画スターでも何でもない」「いい気になっていたら事故を起こす」という考えがあったことによる。しかし、1986年(昭和61年)からは市民との交流に前向きな取り組みが開始され、航空祭ではパイロットのサイン会も行なわれるようになった。 しかし、こうしてブルーインパルスとしての活動が活発になるにつれて、問題が発生していた。 ブルーインパルスのパイロットは教官を兼務しており、これはF-86F時代と変わっていなかった。このため、アクロバット飛行訓練の時間が十分に確保できず、結果的にブルーインパルスへの在籍期間が長くなった。これは実働部隊(TAC部隊)から長期間離脱するということになり、戦闘機パイロットにとっては好ましい状況ではなかった。また、航空祭の時期ともなれば「木曜日か金曜日に展開のため他の基地に移動、土休日に航空祭の展示飛行をこなして松島基地に帰還」というスケジュールとなり、残る月曜から水曜の3日間でアクロバット飛行の訓練ともに教官としての業務もこなさなければならなかった。 さらに、T-2ブルーインパルスが活動を開始する少し前の1981年(昭和56年)12月17日には、より実戦的な空中戦教育を行うための組織として、築城基地で飛行教導隊が発足していた。このような状況では、「戦技研究班」と称しつつアクロバット飛行専門であるブルーインパルスを希望するパイロットは少なくなっていた。 その一方で、1980年代後半には、自衛隊を中途退職して民間航空会社へ転職するパイロットが増え、あまりに退職者が多いためにスクランブル待機の勤務間隔が短くなるなど、実任務にも支障が出る状況になっていた。ブルーインパルスでさえ、1990年3月にはパイロットの半数が転出や退職となり、9ヶ月ほどの間は6機体制での演技が不可能になっていた。
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