飛行学生とは? わかりやすく解説

飛行学生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 15:21 UTC 版)

菅野直」の記事における「飛行学生」の解説

1942年6月1日少尉任官同日38期飛行学生を拝命した。1943年昭和18年2月、飛行学生を卒業し戦闘機専修として大分海軍航空隊付。延長教育を受ける教官岩下邦雄は模擬空戦において訓練生たちの後ろ簡単に取ったが、菅野はぶつかるほどぐいぐい接近し岩下が危険と判断して動き緩めた隙に、反対に岩下後ろ取った岩下は「菅野とは兵学校でも同じ分隊で、あんまり目立たない男でしたが、大分の空戦訓練追躡やっているときは、ぶつかるかと思うくらいグイグイ接近してくる。そのやり方いかにも暴に見えてその時印象強かったせいか、わたしには、何だかひどく乱暴な男のように思えましたね」と語っている。 同期が垂直旋回訓練中の頃に菅野は、教科書読んで勝手に宙返り覚えた射撃成績も優秀で、また標的ギリギリまで接近して射撃したこの頃危険なために着陸禁止になっていた滑走路着陸し機体転覆して大破する事故起こしたが、咄嗟判断転覆する瞬間頭部守って脱出し大怪我もなく無事だった。 飛行学生時の菅野には「菅野デストロイヤー」という渾名がつき、その破天荒ぶりは他の航空隊にまで知られていた。海兵同期香取穎男によれば、「学生のうちに四、五機は壊している」「九六艦戦二、三機。ほかに零戦壊したいずれも着陸のときで、命取りになる離陸時の事故でないのがいかにも菅野らしい」という。宇佐空の岩井滉三は「菅野デストロイヤーの名が私のところまで伝わってきたことからして、大分では九六練戦を何機も壊したのではないでしょうか」という。菅野は飛行学生時代写真の裏に「stant(スタント)ハ終ワッタ」と書き残している。 1943年昭和18年9月15日厚木空付。1944年昭和19年2月第343海軍航空隊(「隼」部隊分隊長拝命した。4月南洋進出菅野24機を率いて木更津からテニアン空輸任務を行うが、途中ではぐれて不時着した機体があった。テニアン到着後に報告などを済ませた菅野単機捜索向かった整備分隊士小林秀江中尉が他に誰か連れて行くことを勧めたが、列機が気にかかって見張り集中できない、と答えた小林は「菅野さんに初め会ったのは鹿児島基地だったが、もう勝手知ったという感じ大きな顔をしていた」「ロクでもない指揮官少なくなかったが、菅野さんはまれにみる立派な指揮官だなと思った」という。 部隊パラオ大型重爆攻撃機迎撃する日々送りその中で菅野は対大型爆撃機戦法考案した直上方から大型重爆攻撃機攻撃する戦法で、前方高度差を1000メートル以上取り、背転し真っ逆さまに垂直で敵編隊突っ込み死角となる真上から攻める。しかし敵との衝突避けるために敵機尾部通っていると、そこに弾幕準備されたため、主翼前方抜けることにした。確かに銃座から射撃されない位置ではあるが、彼我機体衝突の危険が高く、高い反射神経恐怖打ち勝つ精神力求められる攻撃法であったこの方法で列機と共に何機も落とし菅野機体黄色ストライプ模様米軍パイロット達の間で「イエローファイター」と渾名されて怖れられた。後に菅野からこの戦法伝授され森岡寛(同期)は「彼の教えてくれた前上方背面垂直攻撃は、302空でも訓練重ねて昭和19年11月から始まったB29邀撃戦に威力発揮することになった」と語っている。

※この「飛行学生」の解説は、「菅野直」の解説の一部です。
「飛行学生」を含む「菅野直」の記事については、「菅野直」の概要を参照ください。

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