飛行学生
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1942年6月1日に少尉任官、同日第38期飛行学生を拝命した。1943年(昭和18年)2月、飛行学生を卒業し、戦闘機専修として大分海軍航空隊付。延長教育を受ける。教官の岩下邦雄は模擬空戦において訓練生たちの後ろを簡単に取ったが、菅野はぶつかるほどぐいぐい接近し、岩下が危険と判断して動きを緩めた隙に、反対に岩下の後ろを取った。岩下は「菅野とは兵学校でも同じ分隊で、あんまり目立たない男でしたが、大分の空戦訓練で追躡をやっているときは、ぶつかるかと思うくらいグイグイ接近してくる。そのやり方がいかにも乱暴に見えて、その時の印象が強かったせいか、わたしには、何だかひどく乱暴な男のように思えましたね」と語っている。 同期が垂直旋回を訓練中の頃に菅野は、教科書を読んで勝手に宙返りを覚えた。射撃の成績も優秀で、また標的ギリギリまで接近して射撃した。この頃、危険なために着陸禁止になっていた滑走路に着陸し、機体が転覆して大破する事故を起こしたが、咄嗟の判断で転覆する瞬間に頭部を守って脱出し、大怪我もなく無事だった。 飛行学生時の菅野には「菅野デストロイヤー」という渾名がつき、その破天荒ぶりは他の航空隊にまで知られていた。海兵同期の香取穎男によれば、「学生のうちに四、五機は壊している」「九六艦戦を二、三機。ほかに零戦も壊した。いずれも着陸のときで、命取りになる離陸時の事故でないのがいかにも菅野らしい」という。宇佐空の岩井滉三は「菅野デストロイヤーの名が私のところまで伝わってきたことからして、大分では九六練戦を何機も壊したのではないでしょうか」という。菅野は飛行学生時代の写真の裏に「stant(スタント)ハ終ワッタ」と書き残している。 1943年(昭和18年)9月15日厚木空付。1944年(昭和19年)2月第343海軍航空隊(「隼」部隊)分隊長を拝命した。4月、南洋に進出。菅野は24機を率いて木更津からテニアンへ空輸任務を行うが、途中ではぐれて不時着した機体があった。テニアン到着後に報告などを済ませた菅野は単機で捜索に向かった。整備分隊士の小林秀江中尉が他に誰か連れて行くことを勧めたが、列機が気にかかって見張りに集中できない、と答えた。小林は「菅野さんに初めて会ったのは鹿児島基地だったが、もう勝手知ったという感じで大きな顔をしていた」「ロクでもない指揮官も少なくなかったが、菅野さんはまれにみる立派な指揮官だなと思った」という。 部隊はパラオで大型重爆攻撃機を迎撃する日々を送り、その中で菅野は対大型爆撃機戦法を考案した。直上方から大型重爆攻撃機を攻撃する戦法で、前方高度差を1000メートル以上取り、背転し真っ逆さまに垂直で敵編隊に突っ込み死角となる真上から攻める。しかし敵との衝突を避けるために敵機の尾部を通っていると、そこに弾幕を準備されたため、主翼前方を抜けることにした。確かに敵銃座から射撃されない位置ではあるが、彼我機体の衝突の危険が高く、高い反射神経と恐怖に打ち勝つ精神力が求められる攻撃法であった。この方法で列機と共に何機も落とし、菅野の機体の黄色のストライプ模様は米軍パイロット達の間で「イエローファイター」と渾名されて怖れられた。後に菅野からこの戦法を伝授された森岡寛(同期)は「彼の教えてくれた前上方背面垂直攻撃は、302空でも訓練を重ねて、昭和19年11月から始まったB29の邀撃戦に威力を発揮することになった」と語っている。
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