首相辞任後、海相再就任まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:46 UTC 版)
「米内光政」の記事における「首相辞任後、海相再就任まで」の解説
総理大臣を辞任した直後に、栃木県日光市を訪れた際には「見るもよし 聞くもまたよし 世の中は いはぬが花と 猿はいうなり」という短歌と、「ねたふりを しても動くや 猫の耳」という句(川柳)を詠んでいる。 米内が内閣総理大臣を辞した後、陸軍を除く秘書官達で米内の親睦会が設立された。陸軍の秘書官も「あなたたちは(米内内閣の瓦解とは)関係ないのだから」と誘われたのだが、「我々は米内さんに迷惑をかけた存在なので参加する資格などありません」と丁重に断りを入れている。米内内閣が発足した日も辞表を奉呈した日も16日だったことから「一六会(いちろくかい)」と名付けられ、戦後も長く行われ平成期になっても存続した。会員には宇佐美毅、福地誠夫、入江籌直などがいる。昭和天皇は「一六会」の存在は知っており、「一六会」の日になると「今日は『一六会』の日だね」と言ったという。 総理大臣を辞任後、病院通いに東京市電を利用していたが、米内だということがすぐわかり、至る所で国民にサインを求められたり話しかけられたりした。日本では総理経験者となると自家用車やハイヤーなどを使って通院するのが一般的であるため、公共交通機関を利用して通院した戦前の総理は米内くらいだったという。海軍から公用車が派遣されたが、「予備役なので」と断っている。逆に陸軍は次官の子弟の通学の送り迎えにも公用車を使用して、国民の顰蹙を買っていたりしていた。 9月15日、日独伊三国同盟に対する海軍首脳の会議があり、軍令部総長伏見宮博恭王が「ここまできたら仕方ない」と発言し、海軍は同盟に賛成することを決定した。翌日、会議に出席していた連合艦隊司令長官山本五十六は、海相及川古志郎に、米内を現役復帰させ連合艦隊司令長官に就任させることを求めている。この日は昭和天皇が伏見宮の更迭を口にした日でもあったが、及川は米内の復帰と伏見宮更迭を拒んでいる。10月末または11月初頭、山本は及川に米内を軍令部総長として復帰させるよう提案した。この時も及川は採り上げなかったが、山本は11月末に再び米内の連合艦隊司令長官起用を及川に進言している。この時、伏見宮は米内を軍令部総長とすることに同意した。しかしのちに伏見宮が辞任した際、後任として伏見宮が指名したのは永野修身であった。及川は米内の中学の後輩で米内を尊敬しており、第3次近衛内閣成立の際に米内の海相としての復帰を図ったことがある。こうした米内の現役復帰をめぐる動きはいずれも実現せずに、1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃により太平洋戦争(大東亜戦争)を迎えた。 1943年(昭和18年)、海軍甲事件で戦死した盟友山本五十六の国葬委員長を務める。だが軍人が神格化されることを毛嫌いしていた山本をよく知る米内は、後に山本神社建立の話などが出るたびに、井上成美とともに「山本が迷惑する」と言ってこれに強く反対したため、神社は建立されなかった。米内は『朝日新聞』に追悼文を寄稿、その中で「不思議だと思ふのは四月に實にはつきりした夢を見た、何をいつたか忘れたが、今でも顔がはつきりする夢を見た、をかしいなと思つてゐたが、まさかかうなるとは思はなかつた」とその夜のことを振り返っている。
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