首相辞職後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 14:04 UTC 版)
1981年5月の内閣総辞職後は、同年7月から2002年6月まで民主連合所属のローヌ県選出国民議会議員として在職した。1980年代を通じて右翼(ここでは広く保守中道の意味)陣営の主導権をめぐり、共和国連合総裁のシラクと対峙した。バールはコアビタシオンを第五共和政の理念とは反すると考え、1986年3月の国民議会選挙で保守が勝利すると、シラク主導の組閣を許した。1988年4月に実施された大統領選挙では民主連合から立候補したが、ミッテランとシラクに次ぐ3位に終わった。その後は1995年6月から2001年3月までリヨン市長を務めた。 2007年8月25日にパリのヴァル・ド・グラース軍病院にて、心臓病のため83歳で死去した。
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