コアビタシオン【(フランス)cohabitation】
コアビタシオン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/23 15:58 UTC 版)
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コアビタシオン(フランス語: cohabitation)は、フランス語で「同居」「同棲」を意味する名詞。転じて、フランス第五共和政において、所属勢力の異なる大統領と首相が共存する状態を指す。通常、右派政党の大統領と左派政党の首相、逆に左派政党の大統領と右派政党の首相のような組み合わせに用いられ、保革共存政権などとも呼ぶ。
概説
フランス第五共和制下での政治体制において大統領は、首相任免権による行政権の掌握や、議会解散権などの強大な権限を有する。一方で首相は大統領に対するのに加えて、議会(下院)に対しても責任を負う。
大統領の所属勢力と議会の多数派勢力が異なる場合、首相任命権をもつ大統領は首相選任にあたり、議会からの信任を獲得して円滑な議会運営を維持するために、自身の所属していない議会多数派の勢力から首相を選任する必要が発生する。
このように、所属勢力の異なる大統領と首相が共存する状態をコアビタシオンと呼ぶ。大統領の権限には首相の同意が必要なものも少なくないため(例えば法案拒否権)、大統領はコアビタシオンの状況下ではその影響力が相対的に縮小することになる。
コアビタシオン | 大統領 | 首相 |
---|---|---|
第1次コアビタシオン (1986年3月 - 1988年5月) |
フランソワ・ミッテラン(社会党) | ジャック・シラク(共和国連合) |
第2次コアビタシオン (1993年3月 - 1995年7月) |
ミッテラン(社会党) | エドゥアール・バラデュール(共和国連合) |
第3次コアビタシオン (1997年3月 - 2002年5月) |
シラク(共和国連合) | リオネル・ジョスパン(社会党) |
なお、2017年にエマニュエル・マクロンが大統領に就任すると、共和党(共和国連合の後身)は議席数を減らしていったが、6代の首相のうちエドゥアール・フィリップ、ジャン・カステックス(首相就任時に離党)、ミシェル・バルニエの3人は同党に所属し、同党自体は大統領の所属勢力でも議会多数派でもないにもかかわらず首相に選任されている。これは、前述のような左右2派の対立構造とは異なる状況によるものである。
関連項目
コアビタシオン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)
詳細は「コアビタシオン」を参照 1981年の大統領選で社会党のフランソワ・ミッテランが当選し、フランス共産党との左派連合政権となる。ミッテランが大統領に就任した時期は、インフレの増大や失業がフランス経済に打撃を与えていたことから、大規模な国有化政策が実行され、当時、イギリスのサッチャー政権やアメリカのレーガン政権で民営化が推し進めた「小さな政府」とは対照的な「大きな政府」による政策が施行されていき、これらはしばし「実験」とも呼ばれた。またミッテラン政権期には、戦時中の対独協力者を清算するための指名手配や協力者の捜索などが行われた。 しかしミッテランが政策の要としていた失業問題は回復どころか悪化し続け、1983年には不支持率が支持率を上回った。やがて連立政権を組んでいた共産党も1984年7月に首相がピエール・モーロワからローラン・ファビウスに交代したことを受け、政権から離脱した。 70年代後半から80年代にかけての経済不況は、ライフスタイルの変化やバンリューに建てられた団地の治安悪化を招き、放火や窃盗、襲撃といった事件が群発した。こうした暴動は「暑い夏」と呼ばれ、政府や地方行政は都市政策の見直しを求められた。またミッテラン政権期に積極的に行われた移民政策が、言語や学歴、人種差別を招くなどし、こうした問題をより深刻化させ、1983年10月にはキング牧師やガンディーの非暴力・不服従運動に倣い、マルセイユからパリへと移民出身者たちが人種差別規制を求めるブールの行進(英語版)が行われた。また1989年10月には、パリ北郊のクレイユの公立学校に通うムスリムの女学生3人に対して、スカーフを脱ぐよう求められ、うち1人がそれに反対し、退学処分を受けるスカーフ事件(フランス語版)」が起こり、ライシテをめぐる問題が表面化し、世論は大きく分かれた。 1985年4月、ミッテランは選挙法を改正し、翌1986年3月の総選挙に臨むも、右派の共和国連合とフランス民主連合が過半数を2議席上回ったことから、ミッテランは共和国連合のシラクを首相に選出する、大統領与党と首相与党がねじれるコアビタシオン(保革共存)と呼ばれる状態が発生した。これらは7年という大統領の任期と5年という国民議会議員の任期のズレによって生み出されてしまったもので、首相となったシラクは、国営企業の民営化を進め、それに対して大統領であるミッテランは拒否権を発動するなど、足並みは揃わなかった。 1989年12月のマルタ会談による冷戦終結とともに浮上した「ドイツ統一問題」は、独仏関係に動揺をもたらした。フランスにとってドイツの再統一は、それによる国力の回復によって再び第一次世界大戦や第二次世界大戦などを引き起こしかねないという危惧があった。そこでフランスは、統一されたドイツを承認する代わりに、経済通貨同盟を結ぶことによる、仏独関係の深化を促す一方で、こうした流れは、1991年12月、ヨーロッパ統合の流れはやがて経済統合、通貨統合、政治統合を目的とするマーストリヒト条約(欧州連合条約)へと至り、フランスはそれに調印後、翌1992年の国民投票で賛成51%という僅差の勝利を収め、条約を批准させた。この国民投票に際して、社会党、共和国連合、フランス民主連合は条約を支持した一方で、社会党のジャン=ピエール・シュヴェヌマンはそれに反対し離党を表明後、新党「市民運動」を結成し、また共和国連合のフィリップ・セガンやシャルル・パスクワといった重鎮や、フランス民主連合のフィリップ・ド・ヴィリエなどが条約批准に反対を表明するなど、賛成政党の中での離反が相次いだ。また反対した政党には共産党、国民戦線、労働者闘争、緑の党などが名を連ねた。 1993年3月の総選挙で、与党である社会党は壊滅的な敗北を喫し、現役閣僚の多くも選挙で敗れるという事態が起こった。一方で社会党に代わって与党となった共和国連合はミッテランによってエドュアール・バラデュールが首相に任命され、第二次コアビタシオンが始まった。
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