ミッテラン政権時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 17:10 UTC 版)
「社会党 (フランス)」の記事における「ミッテラン政権時代」の解説
1981年フランス大統領選挙でミッテランが現職のジスカール・デスタンを打ち破って当選して以降主要政党として定着した。1981年の大統領選挙に続く6月の総選挙で第一党になり、社共連合政権が発足して大統領職と首相職を社会党が独占した。首相にはピエール・モーロワが就任した。政権発足時より、国有化・積極的投資政策・労働時間の削減などの伝統的な社会主義政策を採ってきたが、インフレ・国際情勢に押されて、1982年6月に一転して財政切り詰めなどの緊縮政策に転換した。1984年7月にモーロワ内閣が退陣してローラン・ファビウスが首相に就任し、共産党は連合政権から離脱した。 1986年フランス議会総選挙では、共和国連合(RPR)とフランス民主連合(UDF)の保守・中道連合に敗北して、社会党のミッテラン大統領と共和国連合のジャック・シラク首相の組み合わせで保革共存というねじれた第一次コアビタシオンが生まれた。 1988年5月にミッテランがシラクを大差で破って大統領に再選し、直後の6月の総選挙でも第一党に返り咲いた。ミッテランはライバルの党内右派のミシェル・ロカールを首相に指名した。ロカールは社会民主主義と混合経済を柱とする「新中道主義路線」を採用する。ロカール退陣後の1991年5月にミッテランはエディット・クレッソンを史上初の女性首相に指名するが、支持率が急降下して地方選挙で大敗したため、1992年4月にクレッソンを更迭し、ピエール・ベレゴヴォワを後任の首相に充てるが、1993年3月の総選挙では歴史的な大敗北を喫し、共和国連合(RPR)のエドアール・バラデュールが首相に就任し、第二次コアビタシオンとなる。
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