ミッテンヴァルデ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 15:01 UTC 版)
「パウル・ゲルハルト」の記事における「ミッテンヴァルデ時代」の解説
1651年にベルリンの南にあるミッテンヴァルデ(現ブランデンブルク州ダーメ=シュプレーヴァルト郡)地区長牧師が亡くなり、30年戦争からの復興を鑑みて市参事会は密接な関係を持つベルリン教会参事会に地区長を担う牧師の補充を願い出た。それに対してベルリン教会参事会は市内の教会共同体においてルター派牧師としての勤勉さと学識の豊かさで高い評価を得ているとして、パウル・ゲルハルトを推薦した。1651年9月28日の試験説教の後、神学的審問を教会事務局から受けた。1651年11月18日にベルリン・ニコライ教会においてルター派の和協信条を順守することを誓った上で牧師に任職された。11月30日にミッテンヴァルデでパウル・ゲルハルトは牧師職に就いた。礼拝時における説教のような通例の職務を行い、さらに洗礼、葬儀、罪の告白、埋葬式に含まれる聖餐式も執り行った。ゲルハルトの新任地区長としての職務はケーニヒス・ヴスターハウゼン、グレーベンドルフ、トイピッツ、グスゾーにいる11人の牧師たちを監督することも含んでいた。 牧師としての職務に加えて、ゲルハルトはミッテンヴァルデにおいて詩作に励んだ。1653年、クリューガー賛美歌集の第5版が出版された。そこにおいてゲルハルト作詞の新たな賛美歌64編が含まれている。この時期、受難曲「血しおしたたる」を彼は書いている。この著名な受難曲はクリューガー賛美歌集の次の版(1656)に載っており、現在世界遺産にも含まれている。この曲はアルヌルフ・フォン・レーベンによるラテン語詩文「Salve Caput Cruentatum」から翻訳されて作られた。以前はクレルヴォーのベルナール(1090-1153)による詩文とされていた。この受難曲はヨハン・ゼバスティアン・バッハのマタイ受難曲において導入部に含められている。1655年2月11日、パウル・ゲルハルトはアンドレアス・ベルトルトの娘アンナ・マリア(1622年5月19日生まれ)と結婚した。ゲルハルト夫妻はベルリン地区長ペトルス・フェアーの司式で婚礼をベルリンで挙げた。その後1656年5月19日に娘マリア・エリザベートが生まれたが、半年後の1657年1月28日に亡くなった。ゲルハルトの長女はミッテンヴァルデに埋葬され、聖モーリッツ教会に銘板が残されている。他の4人の子供が生まれたが、3人(アンナ・カタリーナ、アンドレアス・クリスチャン、アンドレアス)は早世した。パウル・フリードリヒだけが両親よりも後世まで生きることができた。
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