航空特攻
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詳細は「神風特別攻撃隊」を参照 1944年10月5日、大西瀧治郎中将が第一航空艦隊司令長官に内定した。大西は「震洋」「回天」「桜花」など海軍が特攻兵器の開発を開始していることを知っており、航空特攻を採用しようと考えていた。大西はフィリピンに出発する前に海軍省大臣米内光政に現地で特攻を行う決意を語り承認を得て、軍令部総長及川古志郎に対しても決意を語り、「決して命令はしないように。戦死者の処遇に関しては考慮します。」「指示はしないが現地の自発的実施には反対しない」と及川の承認も得た。大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した。また大西は発表に関する打ち合わせも行い、事前に中央は発表に関して大西からの指示を仰ぐ電文も用意し、事後に発信している。 フィリピンに進出する前に大西は台湾に立ち寄り、連合艦隊司令長官豊田と共に台湾沖航空戦の戦局を見守っていたが、台湾新竹上空で繰り広げられた零戦とF6Fヘルキャットの空戦を見て、日本軍の不利を悟って、不利を克服して勝機を掴むのは敵空母に対する体当たりしかないと意を強くした。10月15日に敵空母に特攻をおこなった有馬の行動も大西を後押しするかたちとなり、豊田と特攻戦術採用について「単独飛行がやっとの練度の現状では被害に見合う戦果を期待できない、体当たり攻撃しかない、しかし命令ではなくそういった空気にならなければ実行できない」と自分の考えを述べるなど、長い時間打ち合わせした後に、10月17日にフィリピンのマニラに向け出発した。フィリピンに到着すると前任者である寺岡謹平に特攻隊の構想を打ち明けて同意を求めたが、寺岡は後任の大西に一任した。 大西は1944年10月19日夕刻に第201海軍航空隊司令部のあるマバラカットを訪れ、司令部として借上げていた洋館に副長玉井浅一中佐 や1航艦首席参謀猪口力平中佐ら航空隊幹部を招集し、「戦局はみなも承知の通りで、今度の捷号作戦にもし失敗すれば、それこそ由々しい大事をまねくことになる。従って、1航艦としては、是非とも栗田部隊のレイテ突入を成功させねばならないが、そのためには敵の機動部隊を叩いて、少なくとも1週間ぐらい、敵の空母の甲板を使えないようにする必要があると思う。」「そのためには、零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃法はないと思うが・・・どうだろうか?」と自分の考えを披瀝(ひれき)した。航空隊幹部らもかねてから同じようなことを考えていたが、玉井は即答を避け、一度席を外し先任飛行長の指宿正信大尉と協議した後、大西の意見に同意した。玉井はさらに「攻撃隊の編制については、全部航空隊に任せて下さい。」と人選については一任を申し出、大西の承諾を得た。玉井は士気を高揚させるために指揮官となる士官は海軍兵学校出身の現役士官がいいと考え、戦闘機搭乗員の菅野直を考えたが東京出張中であったので、艦上爆撃機搭乗員の関行男大尉ではどうか?と猪口に聞き、海軍兵学校時代に関の教官であった猪口も同意した。猪口と玉井は関を士官室に呼ぶと特攻隊の指揮官となることを打診し、関は少し考えた後応諾した。 翌10月20日午前10時、大西は編成された特攻隊4部隊敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の全特攻隊員24名を前にして、「日本は正に危機である。しかも、この危機を救い得る者は、大臣でも大将でも軍令部総長でもない、もちろん自分のような長官でもない。それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。従って自分は一億国民に代わり、皆にお願いする。どうか、成功を祈る。皆は、既に神である。神であるから欲望はないであろう、が、あるとすれば、それは自分の体当たりが、無駄ではなかったか、どうか、それを知りたいことであろう。しかし皆は永い眠りに就くのであるから、残念ながら知ることもできないし、知らせることもできない。だが、自分はこれを見届けて必ず上聞に達するようにするから、そこは、安心して行ってくれ・・・しっかり頼む。」と訓示した。訓示の後、大西は涙ぐみながら隊員の1人1人と熱い握手を交わした。 日本海軍では、航空機による体当たり攻撃を「神風特別攻撃隊」として統一名で呼称した。名称は猪口の発案によるもので、郷里の古剣術の道場「神風(しんぷう)流」から名付けたものである。一方で第201航空隊飛行長中島正少佐の証言では「かみかぜ」と読む。 神風特別攻撃隊の初出撃は1944年10月21日であった。全24機が出撃したが悪天候などに阻まれ、ほぼ全機が帰還したが、大和隊隊長久納好孚中尉が未帰還、23日に大和隊佐藤馨上飛曹が未帰還となっている。関は酷い下痢で絶食しており疲労感が見て取れたが、25日の出撃前に「索敵しながら南下し、発見次第突入します。」と自ら提案し確実に突入する覚悟を示した。その日に4度目の出撃で関率いる敷島隊の6機は、サマール沖海戦を戦った直後のタフィ―3を発見し突入した。内1機がアメリカの護衛空母セント・ローを撃沈、大和隊の4機、朝日隊の1機、山桜隊の2機、菊水隊の2機、若桜隊の1機、彗星隊の1機等が次々に突入し、護衛空母を含む5隻に損傷を与える戦果を挙げ、直援機であった西沢広義飛曹長によりその戦果が確認された。これを大本営海軍部は大々的に発表し、新聞は号外で報じた。敷島隊指揮官であった関は軍神と呼ばれ、母が住む実家の前には「軍神関行男海軍大尉之家」と書いた案内柱が立てられて、多くの弔問客が訪れた。 10月26日、及川古志郎軍令部総長が神風特攻隊の戦果を奏上し、昭和天皇(大元帥)から、「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」と御嘉賞の勅語を賜った。また、10月30日には米内光政海軍大臣に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と発言した。大西はこの昭和天皇のお言葉を、作戦指導に対する叱責と感じて恐れ入り、翌27日、参謀の猪口に「こんなことしなければならないのは日本の作戦指導がいかにまずいかを表している。統帥の外道だよ。」と語っている。 神風特攻隊編成当初は、参謀の猪口が「特攻隊はわずか4隊でいいのですか?」と訊ねたのに対し、「飛行機がないからなぁ、やむをえん。」と特攻は一度きりで止めたいとの意向を示していた大西であったが、10月23日の時点で大西の第1航空艦隊は連日の戦闘による消耗で、戦闘機30機、その他20機の合計50機まで稼働機数が激減していたため、もはや特攻を軸に戦う外ないという考えに至った。10月23日にクラーク基地に進出してきた第二航空艦隊(350機)の福留繁第2航空艦隊長官に大西は特攻採用を強く説いたが、福留は特攻採用による搭乗員士気の喪失を懸念、従来の大編隊による通常攻撃に固執し大西の申し入れを拒否している。 10月23日〜25日まで第1航空艦隊の特攻と並行して、第2航空艦隊は250機の総力を投じ従来の航空通常攻撃を行ったが、軽空母プリンストンを大破(後にアメリカ軍により処分)、アシュタブラ (タンカー)(英語版)大破、駆逐艦ロイツェ損傷の戦果に対し、大量の航空機を喪失した。少数の特攻機で第2航空艦隊を上回る戦果を挙げた大西は、再度福留に「特別攻撃以外に攻撃法がないことは、もはや事実により証明された。この重大時期に基地航空部隊が無為に過ごすことがあれば全員腹切ってお詫びしても追いつかぬ。第2航空艦隊としても特別攻撃を決意すべきだと思う」と迫った。福留は幕僚と協議し10月26日に特攻を行うことに同意した。 第1航空艦隊と第2航空艦隊が特攻を採用したため、よりその機能を発揮させる目的で、両航空艦隊を統合した連合基地航空隊を編成し、先任の福留を司令官とし大西が参謀長となった。10月27日、大西によって特攻隊の編成方法、命名方法、発表方針などが軍令部、海軍省、海軍航空本部など中央に通達された。 連合基地航空隊には北東方面艦隊第12航空艦隊の戦闘機部隊や、空母に配属する予定であった第3航空艦隊の大部分などが順次増援として送られ特攻に投入されたが、戦力の消耗も激しく、大西は上京し、更なる増援を大本営と連合艦隊に訴えた。大西は300機の増援を求めたが、連合艦隊は、大村海軍航空隊、元山海軍航空隊、筑波海軍航空隊、神ノ池海軍航空隊の各教育航空隊から飛行100時間程度の搭乗員と教官から志願を募るなど苦心惨憺して、ようやく150機をかき集めている。これらの隊員は猪口により台湾の台中・台北で10日間集中的に訓練された後フィリピンに送られた。 大西の強引な特攻隊拡大に批判的な航空幹部もいたが、大西は「今後俺の作戦指導に対する批判は許さん」と指導している。大西は大阪毎日新聞特派員後藤基治からの「なんで特攻を続けるのですか?」という質問に対して、幕末会津藩の白虎隊の例を出して、「ひとつの藩の最後でもそうだ」「ここで青年が起たなければ、日本は滅びるだろう。青年たちが国難に殉じていかに戦ったかということを歴史が記憶しているかぎり、日本人は滅びることはないだろう。」と答え、その後も特攻を推進していった。しかし大西は深い憂鬱に囚われており、副官の門司親徳大尉へ「わが声価は、棺を覆うて定まらず、100年ののち、また知己を得ないだろう」とつぶやいている。 少数の特攻機が大きな成果を挙げたことはアメリカ軍側に大きな衝撃を与えた。レイテ島上陸作戦を行ったアメリカ海軍水陸両用部隊参謀レイ・ターバック大佐は「この戦闘で見られた新奇なものは、自殺的急降下攻撃である。敵が明日撃墜されるはずの航空機100機を保有している場合、敵はそれらの航空機を今日、自殺的急降下攻撃に使用して艦船100隻を炎上させるかもしれない。対策が早急に講じられなければならない。」と考え、物資や兵員の輸送・揚陸には、攻撃輸送艦(APA)や攻撃貨物輸送艦(AKA)といった装甲の薄い艦船ではなく、輸送駆逐艦(APD)や戦車揚陸艦(LST)など装甲の厚い艦船を多用すべきと提言している。またアメリカ軍は、最初の特攻が成功した10月25日以降、病院船を特攻の被害を被る可能性の高いレイテ湾への入港を禁止したが、レイテ島の戦いでの負傷者を救護する必要に迫られ、3時間だけ入港し負傷者を素早く収容して出港するという運用をせざるを得なくなった。 フィリピンの戦いを指揮した南西太平洋方面軍(最高司令官ダグラス・マッカーサー大将)のメルボルン海軍部は、指揮下の全艦艇に対して「ジャップの自殺機による攻撃が、かなりの成果を挙げているという情報は、敵にとって大きな価値があるという事実から考えて(中略)公然と議論することを禁止し、かつ第7艦隊司令官は同艦隊にその旨伝達した」とアメリカとイギリスとオーストラリアに徹底した報道管制を敷いた。これはニミッツの太平洋方面軍も同様の対応をしており、特攻に関する検閲は太平洋戦争中でもっとも厳重な検閲となっている。南西太平洋方面軍は更に、休暇等で帰還するアメリカ・オーストラリア兵士に対しても徹底した緘口令(かんこうれい)を敷いている。 アメリカ軍兵士の士気に与えた影響も大きく、パニックで神風ノイローゼに陥るものもいた。特攻開始後に、空母ワスプの乗組員123名に健康検査を行ったところ戦闘を行える健常者が30%で、他は全部精神的な過労で休養が必要と診察された。本来アメリカ海軍は、艦内での飲酒を固く禁じていたが、カミカゼの脅威に対峙(たいじ)する兵士の窮状を診かねた軍医から第7水陸両用部隊司令ダニエル・バーベイ(英語版)少将へ、兵士らのカミカゼへの恐怖を振り払わせるために艦内での飲酒解禁の提案があり、兵士らは貯蔵してあったバーボン・ウィスキーを士気高揚剤として支給されている。酔った勢いのカラ元気は、カミカゼに対抗するために利用された一つの武器となった。それでも、精神病を発症するアメリカ海軍兵士は増加し、開戦後1,000人中9.5人の発症率であったのが、1944年の特攻開始時では1,000人中14.2人に跳ね上がっている。この要因を合衆国艦隊司令長官・海軍作戦部長アーネスト・キングは「現代戦のテンポの早さが兵士を疲労させたことと、予想もされない恐怖(特攻)によるものである。」と分析していた。アメリカ軍は特攻兵器を扱う日本軍兵士を、特別な素質を持った軍人と考え、陸軍参謀総長のジョージ・マーシャルは陸軍省に特攻の報告をおこなう際に、「もし、敵の勇気を軽視するようなことがあれば、わが軍の勝利を危うくすることになろう。」という意見を添えている。 その後も特攻機は次々とアメリカ軍の主力高速空母部隊第38任務部隊の正規空母に突入して大損害を与えていった。1944年10月29日イントレピッド、10月30日フランクリン 、ベローウッド 、11月5日レキシントン、11月25日エセックス、カボット が大破・中破し戦線離脱に追い込まれ、他にも多数の艦船が撃沈破された。 特攻機による空母部隊の大損害により、第38任務部隊司令ウィリアム・ハルゼー・ジュニアが11月11日に計画していた艦載機による初の大規模な東京空襲は中止に追い込まれた。ハルゼーはこの中止の判断にあたって「少なくとも、(特攻に対する)防御技術が完成するまでは 大兵力による戦局を決定的にするような攻撃だけが、自殺攻撃に高速空母をさらすことを正当化できる」と特攻対策の強化の検討を要求している。 フィリピン戦での特攻による損害を重く見たアメリカ海軍は、最初の特攻被害からわずか1か月後の1944年11月24日から26日の3日間に渡り、サンフランシスコにて、ワシントンからアメリカ海軍省首脳と、真珠湾から太平洋艦隊司令部幕僚と、フィリピンの前線から第三艦隊司令ハルゼーと第38任務部隊司令ミッチャー少将の海軍中央から実戦部隊までの幕僚らが一堂に会して、異例とも言える特攻対策の集中会議を行った。その会議で様々な特攻対策が検討され、一部は実現されていった(#特攻対策を参照)。その中の一つで、12月14日〜12月16日まで500機の戦闘爆撃機と40機の夜間戦闘機により、日本軍の特攻基地を集中攻撃する「ブルーブランケット」作戦が行われ、アメリカ軍は170機の特攻機を地上で撃破したと主張したが、特攻は衰えることなく、ミンドロ島やルソン島に侵攻してくるアメリカ軍艦隊に襲い掛かり、1945年1月4日に護衛空母オマニー・ベイを撃沈するなど、フィリピン戦の期間を通じてアメリカ軍の艦船22隻を撃沈、110隻以上を損傷させた。 フィリピンでの特攻が最高潮に達したのが、1945年1月6日に連合軍がルソン島上陸作戦のためリンガエン湾に侵入したときで、フィリピン各基地から出撃した32機の特攻機の内12機が命中し7機が有効至近弾となり連合軍は多大な損害を被った。戦艦ニューメキシコには、イギリス海軍太平洋艦隊司令ブルース・フレーザー大将と、イギリス陸軍観戦武官のハーバード・ラムズデン(英語版)中将が乗艦していたが、その艦橋に特攻機が突入、ラムスデン中将とフレーザー大将の副官が戦死し、上陸作戦を指揮した南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサー大将が衝撃を受けている。マッカーサー自身が乗艦していた軽巡洋艦ボイシも甲標的と特攻機に攻撃されたが損害はなかった。マッカーサーは特攻機とアメリカ艦隊の戦闘を見て「ありがたい。奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の軍隊輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう。」と感想を述べている。日本軍の攻撃目標選定のミスを指摘しながらも、特攻がルソン島の戦いの帰趨(きすう)を左右するような威力を有していると懸念していたものと思われる。
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航空特攻
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詳細は「万朶隊」を参照 陸軍の特攻は鉾田教導飛行師団の万朶隊と浜松教導飛行師団の富嶽隊によって最初に行われた。通常の編成は航空本部から電文で命令されるが、命令は天皇を介するため、任命電報が送れず、菅原道大中将が編成担当者に任務を与えて派遣した。万朶隊は、1944年10月4日航空総監部から鉾田教導飛行師団に九九双軽装備の特攻隊編成の連絡があった。10月13日、師団長今西六郎中将は航空総監と連絡して特攻部隊の編成を打ち合わせ、中旬に九九双軽の特攻改修機が到着した。特攻改修機とは、機首の風防ガラスから3mの起爆管3本を突出させ海軍の八十番徹甲爆弾を積載できるように改修されたものであり、投下装置への配線が未実装であったが不時着時の主脚への負担と安全面の配慮からか内地にて手動索で投下できるように、安全装置も機上にて解脱できるよう改修が行われ、機首の起爆管も1本とした(その結果速度の向上が見られた)。 10月20日、参謀本部から編成命令が下され、21日岩本益臣大尉以下16名が決定した。22日、航空総監代理による総監訓示が行われ、今西師団長も訓示を行う。26日、九九双軽の特攻隊はフィリピンのリパに到着。29日、万朶隊と命名されたが、この名前は、梅津美治郎参謀総長が藤田東湖の「正気の歌」から命名したものであった。 万朶隊は初出撃を待つが11月5日、岩本の操縦する九九双軽で第4航空軍の司令部に作戦の打ち合わせに向かった際にアメリカ軍戦闘機に撃墜され、同乗中の将校を含めて5名全員が戦死した。万朶隊は岩本が「航法の天才」と呼ばれていたなど、全員が鉾田教導飛行師団の精鋭をもって組織されていたため、出撃前の大損害となった。11月12日に田中逸夫曹長以下4機が、岩本らの遺骨を抱いてレイテ湾に出撃し、全機未帰還、戦艦1隻、輸送艦1を撃沈したとして、南方軍司令官寺内寿一大将より感状が授与された。しかしこの戦果は、海軍の神風特別攻撃隊が空母を撃沈したという戦果発表に張り合って陸軍は戦艦を撃沈したという過大戦果発表であり、実際にアメリカ軍がこの日に被った損害は工作艦2隻の損傷のみであった。この日出撃した万朶隊の4機は全員戦死と思われていたが、後に佐々木友次伍長が敵艦に体当たりせず通常攻撃を行い、ミンダナオ島のカガヤン飛行場(英語版)に生還していたことが判明している。佐々木はこの後も出撃を繰り返したが、敵艦に突入することなくいずれも生還している。 富嶽隊は、浜松教導飛行師団長川上淸志少将が特攻隊編成の内示を受けると、同師団の第1教導飛行隊を母隊として編成し、1944年10月24日から特別任務要員として南方へ派遣した。26日、参謀総長代理菅原道大航空総監が臨席して出陣式が行われ、富嶽隊と命名された。四式重爆撃機飛龍には海軍より支給された八十番徹甲爆弾2発を搭載する代わりに、軽量化のために爆撃装備や副操縦席に至るまですべてが撤去され、機首と尾部の風防ガラスをベニヤ板に変えられた特攻用改修機を配備された。四式重爆撃機には通常8名(機長、操縦士、整備兵2名、通信士、爆撃手機銃手など4名)が搭乗するが、「と」号機には操縦者と機関員(ないし通信員)の2名のみが搭乗した。富嶽隊もフィリピンに到着後、こちらも待機していたが11月7日早朝、初出撃した。この出撃は空振りに終わり、山本中尉機が未帰還となった。富嶽隊は13日に、隊長西尾常三郎少佐以下6名が米機動部隊に突入して戦死し、戦果確認機より戦艦1隻轟沈と報告され、南方軍より感状が授与された。残った富嶽隊は、1945年1月12日まで順次出撃を繰り返した。 1944年11月6日、陸軍中央は海軍が小回りの利く零戦などの小型機による特攻で成果を挙げていることを知り、明野教導飛行師団で一式戦闘機などの小型機を乗機とする特攻隊を編成し、「八紘隊」と名付けてフィリピンに投入した。名前の由来は日本書紀(淮南子)の「八紘をもって家となす」(八紘一宇)による。アメリカ軍のレイテ上陸により、一時司令部をネグロス島に移転していた第4航空軍司令官の富永恭次中将が11月7日にマニラ軍司令部に戻ると、「八紘隊第1隊」「八紘隊第2隊」などと呼ばれていた各隊を八紘隊、一宇隊、靖国隊、護国隊、鉄心隊、石腸隊と命名し、「諸子のあと第4航空軍の飛行機が全部続く、そして最後の1機には富永が乗って体当たりをする決心である。安心して大任を果たしていただきたい。」と訓示激励し、軍司令官自ら隊員一人一人と握手し、士気を鼓舞している。後に八紘隊は、明野教導飛行師団・常陸教導飛行師団・下志津教導飛行師団・鉾田教導飛行師団などにより合計12隊まで編成され、丹心隊、勤皇隊、一誠隊、殉義隊、皇魂隊、進襲隊と命名された。 八紘隊各隊は「十神鷲十機よく十艦船を屠る」と称されたほど、陸軍特攻隊では最も大きな戦果を挙げた部隊と言われている。以下はすべて確実な戦果として、11月27日に八紘隊(一式戦闘機「隼」)が戦艦「コロラド」、軽巡洋艦「セントルイス」、軽巡洋艦「モントピリア」に突入して損害を与え、駆潜艇「SC-744」を撃沈。11月29日、靖国隊(一式戦「隼」)が戦艦「メリーランド」、駆逐艦「ソーフリー」、駆逐艦「オーリック」に突入し、損害を与えている。さらに12月13日には一宇隊(一式戦「隼」)あるいは海軍特別攻撃隊第2金剛隊が軽巡洋艦「ナッシュビル」に、1月5日には重巡洋艦「ルイビル」に石腸隊あるいは進襲隊(九九式襲撃機)、1月8日には軽巡洋艦「コロンビア」に鉄心隊あるいは石腸隊(九九式襲撃機)、1月9日には戦艦「ミシシッピ」に一誠隊(一式戦「隼」)がそれぞれ突入し、損害を与えた。なかでも、靖国隊の一式戦「隼」が突入した戦艦「メリーランド」は大破炎上し、修理のために翌1945年3月まで戦列を離れている。メリーランドに突入した一式戦「隼」は、雲の中から現れて急降下で同艦に突入する寸前に機首を上げて急上昇をはじめ、尾翼を真下に垂直上昇してまた雲に入ると、1秒後には太陽を背にしての急降下でメリーランドの40.6cm砲(16インチ砲)を備える第1砲塔と第2砲塔の中間の甲板に突入した。その間、特攻機はまったく対空射撃を浴びることはなかった。その見事な操縦を見ていたメリーランドの水兵は、「これはもっとも気分のよい自殺である。あのパイロットは一瞬の栄光の輝きとなって消えたかったのだ」と日記に書き、その特攻機の曲芸飛行を見ていたモントピリアの艦長も「彼の操縦ぶりと回避運動は見上げたものであった」と感心している。
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航空特攻
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詳細は「菊水作戦」を参照 日本軍は沖縄本島にアメリカ軍が上陸した1945年4月1日に「天一号作戦」を発動し、海軍は「菊水作戦」、陸軍は「航空総攻撃」という作戦名で九州・台湾から航空特攻を行った。特攻作戦が最大規模で実施されたのは、沖縄戦中の1945年4月6日の菊水一号作戦発動時であり、翌7・8日と合わせて陸海軍合わせて300機近くの特攻機が投入され、多大な戦果を挙げている。第54任務部隊(司令モートン・デヨ少将)は9隻の戦艦・巡洋艦と7隻の駆逐艦で作戦中に特攻機による集中攻撃を受けたが、まずは戦艦などの主力艦外周3,500mに展開していた駆逐艦隊が最初の目標となった。その様子を旗艦の戦艦テネシーに乗艦していたサミュエル・モリソン少将が目撃しているが、駆逐艦ブッシュとコルホーンが撃沈され、駆逐艦ニューコム とロイツェ が再起不能となる深刻な損傷を被った。ニューコムはスリガオ海峡海戦で西村艦隊の戦艦への魚雷攻撃を指揮した、アメリカ軍駆逐艦の中でもっとも敢闘精神が旺盛な艦と評されていたが、特攻機が戦艦ではなく自分たちへ突入したことに対し、乗員が「どうして我々なんだ?」と困惑していたという。 この戦闘のように、駆逐艦に損害が集中したのが沖縄戦の特攻作戦の特徴である。アメリカ軍はフィリピン戦での特攻による大損害を分析して様々な特攻対策を講じたが、その一つが戦艦や空母といった主力艦隊の外周にレーダー搭載の駆逐艦などのレーダーピケット艦を配置し、特攻機が主力艦隊に到達する前に効果的な迎撃を行うというものであった。この対策により、空母などの主力艦への突入機数は減少したが、逆にレーダーピケット艦の損害は増大することとなり、「弱いヤギ(ピケット艦)を犠牲に、狼(特攻機)から群れ(主力艦艇)を守るようなもの」 とか「まるで射的場の標的の様な形で沖縄本島の沖合に(駆逐艦が)配置されている」 と揶揄(やゆ)されている。アメリカ海軍水陸両用部隊司令リッチモンド・K・ターナー中将の幕僚は、「艦隊より優秀な艦を選んでレーダーピケット艦としたが、それはそのピケット艦と乗組員に対する死刑宣告も同然だった」と述懐している。デヨは駆逐艦の消耗があまりに激しいため、「駆逐艦の消耗具合が容易ならざる水準に達している」 と危機感を募らせている。あまりに特攻がレーダーピケット艦を攻撃してくるので、駆逐艦ラフィーの乗組員の1名が「Carriers This Way(空母はあちら)」という意味の矢印を書いた大きな看板を掲げたこともあったが、ラフィーはニューコムと同じく5機の特攻を受けて大破した。レーダーピケット艦の消耗により、早期警戒網を突破して主力艦隊に突入する特攻機も増え、戦艦・空母といった主力艦の損害も次第に増加していくこととなった。4月12日には第54任務部隊の旗艦戦艦テネシーにも2機の特攻機が命中し、死傷者199名の甚大な損傷を受けている。デヨも艦橋目がけて突入してきた特攻機が直前で撃墜され、九死に一生を得ている。その際、集中射撃してもなかなか撃墜できなかった特攻機を見て「彼奴らの体は何でできているのだろうか」と驚嘆している。 アメリカ海軍は日本軍による航空特攻を少しでも和らげようと、アメリカ陸軍航空軍戦略爆撃機部隊のB-29による航空支援の要請を行っている。海軍の申し入れに対して第20空軍司令官カーチス・ルメイ少将は、日本の都市への焼夷弾による絨毯爆撃を一旦中止し、B-29を九州を中心とする航空基地爆撃の戦術爆撃任務に回すことを了承し、延べ2,000機のB-29が日本の都市や工業地帯への絨毯爆撃から九州の航空基地への攻撃に転用されている。九州の各基地に配置されていた戦闘機部隊がB-29の迎撃を行ったが、海軍航空隊はB-29の迎撃に不慣れであったため、陸軍航空隊が主力となってその戦闘機による対空特攻も行われた。4月18日に太刀洗飛行場に来襲した112機のB-29のうちの1機「ゴナ.メイカー」機には、飛行第4戦隊で編成された特別攻撃隊「回天制空隊」の指揮官である山本三男三郎少尉搭乗の二式複座戦闘機屠龍が体当たりし、撃墜した。5月7日にも同じ第4戦隊の村田勉曹長機が「エンパイアエクスプレス」機に特攻して撃墜しているが、B-29がこれまで爆撃目標にしてきた大都市や産業施設と比べると、九州の航空基地は高射砲や戦闘機による迎撃は少なく損害は軽微であった。 しかし、B-29は分散していた特攻機に十分に損害を与えることができず、九州や台湾の航空基地にすぐに埋め戻される穴を開けたに過ぎなかったため、失望したアメリカ海軍は5月中旬にはルメイへの支援要請を取り下げ、B-29は都市や産業への戦略爆撃任務に復帰しているが、B-29が特攻機対策を行った1か月以上の期間は、都市や産業施設への戦略爆撃は軽減されることとなった。 初出撃が失敗に終わった桜花も沖縄戦に投入され、4月12日の3回目の出撃で駆逐艦マナート・L・エベールを撃沈した。アメリカ軍は桜花に自殺する愚かものが乗る兵器という意味で「BAKA」というニックネームを付けたが、一度発射されればほぼ迎撃は不可能であり、アメリカ艦隊には桜花に対する恐怖が蔓延した。しかし、その後は母機の脆弱性が制限要素となり、戦果は3隻の駆逐艦を大破(2隻は除籍)させたに止まり、アメリカ軍からは「この自殺兵器の使用は成功しなかった。」と評された。 特攻で損傷した艦艇は、8隻の工作艦が配置された慶良間諸島沖で応急修理がなされていたが、常に多数の損傷艦で溢れ、駆逐艦の墓場と呼ばれていた。それでも修理できない甚大な損害を被った艦は群れをなし、ハワイ・アメリカ本土に向けて太平洋を渡っていった。そして損傷した艦や負傷した兵士の代わりとして、アメリカ本土や大西洋から新鋭艦や兵士が沖縄に送られていった。 従軍記者ハンソン・ボールドウィン(英語版)は「毎日が絶え間ない警報の連続だった。ぶっつづけに40日間も毎日毎夜、空襲があった。そのあと、やっと、悪天候のおかげで、短期間ながらほっと一息入れられたのである。ぐっすり眠る、これが誰もの憧れになり、夢となった。頭は照準器の上にいつしか垂れ、神経はすりきれ、誰もが怒りっぽくなった。艦長たちの目は真っ赤になり、恐ろしいほど面やつれした。敵の暗号を解読しその意図を判断する暗号分析班の活躍により、敵の大規模な攻撃を事前に予測することができた。時には攻撃の前夜に、乗員たちに戦闘準備の警報がラウンドスピーカーで告げられた。しかし、これはやめねばならなかった。待つ間の緊張、予期する恐怖、それが過去の経験によっていっそう生々しく心に迫り、そのためヒステリー状態に陥り、発狂し、あるいは精神消耗状態におちいった者もあったのである。」と当時の様子を語っている。 菊水作戦は第10号まで行われ、アメリカ海軍は沖縄戦において艦船36隻沈没、368隻損傷、航空機768機、人的損害として1945年4月から6月末で死者4,907名、負傷者4,824名を失ったが、これはアメリカ海軍の第二次世界大戦上で最悪の損害であった。沖縄戦でのアメリカ海軍の人的損失は、わずか3か月の間にヨーロッパ戦線・太平洋戦線全体を併せたアメリカ海軍の第二次世界大戦における人的損失の20%に達したという統計もある。沖縄戦でのアメリカ海軍、特にピケット艦の任務は、ドイツ軍のUボートの脅威に晒された大西洋の輸送船団護衛任務より遥かに厳しかったとの評価だった。第5艦隊内では、幕僚などから沖縄よりの一時撤退が話題に上ったほどであったが、第5艦隊司令のレイモンド・スプルーアンス大将は激怒し、アメリカ艦隊は特攻による大損害に耐えて沖縄に止まった。 一方、沖縄戦での特攻はアメリカ軍の特攻対策が強化されたことにより、有効率が下がって日本側の犠牲も多かった。そのため、特攻の効果があったのは奇襲的効果のあったフィリピン戦のみで、末期の沖縄戦の特攻は効果もないのに軍の面子や惰性で続けられたとする表現も多く、日本では過小評価されがちであるが、有効率がフィリピン戦26.8%から沖縄戦14.7%で12%減に対し、攻撃機数は約3倍(フィリピン戦650機、沖縄戦1,900機)であり、アメリカ海軍の損害は沖縄戦の方が遥かに大きかった。 特攻で海軍艦艇が大損害を被った沖縄戦はアメリカ軍にとって大戦で最大級の衝撃であり、沖縄戦での特攻作戦を「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していたことは明白である。」と総括している。また、アメリカ海軍は公式文書で特攻に対して「この死に物狂いの兵器は、太平洋戦争で最も恐ろしい、最も危険な兵器になろうとしていた。フィリピンから沖縄までの血に染まった10ヶ月のあいだ、それは、我々にとって疫病のようなものだった」と率直に苦しみぬいた状況を吐露している。モリソンは沖縄戦での特攻を「ゼウス神の電光の様に青空からうなり出てくる炎の恐怖」や「かつてこのような炎の恐怖、責め苦の火傷、焼けつくような死に用いられた兵器は無かった」と表現し、その特攻と戦ったアメリカ軍の駆逐艦乗りに対して「沖縄の戦いの中で、来る日も来る日も、これらの艦船の乗組員が示した持続する勇気、臨機応変の才、敢闘精神は海軍の歴史にいくつもの類例を残している」と称賛している。 特攻機が命中すると「何百メートルもの高さに達する火柱」が上がり、沖縄本島上でアメリカ軍の陸海空の重囲下で戦う第32軍の将兵を勇気づけたという。特攻機の活躍を一目見ようと日本兵は洞窟陣地から飛び出し、特攻機が命中すると歓喜の声を上げて感謝の涙をこぼした。特攻機の活躍を見る行為を兵士らは「特攻隊を拝みに行く」という表現を用い、「やったなぁご苦労さん」と地面に手をついて沖の方を拝んだ。ただ、いくら特攻で損害を与えても一向に減ることのないアメリカ軍艦艇を見て、次第に将兵の中にも失望感が芽生え、1機でも2機でもいいから陸上のアメリカ軍を攻撃して欲しいと願う将兵が増え、第32軍の参謀が方面軍参謀長宛てに航空部隊による地上支援の要請の打電を行ったこともあった。 陸海で、アメリカ軍が第二次世界大戦最大級の損害を被った沖縄戦がようやく終わると、イギリスのウィンストン・チャーチル首相はアメリカのハリー・S・トルーマン大統領に向けて「この戦いは、軍事史の中で最も苛烈で名高いものであります。我々は貴方の全ての部隊とその指揮官に敬意を表します」と慰労と称賛の言葉を送っている。
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航空特攻
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「特攻で損害を受けた艦船の一覧」の記事における「航空特攻」の解説
沈没日艦名艦種場所戦死者負傷者1944年10月24日 ソノマ(艦隊曳航船)(英語版) 艦隊曳航船 フィリピン 7 36 1944年10月24日 LCI-1065(英語版) 歩兵揚陸艦 フィリピン 13 8 1944年10月25日 セント・ロー 護衛空母 フィリピン 143 370 1944年11月1日 アブナー・リード 駆逐艦 フィリピン 23 56 1944年11月27日 SC-744 駆潜艇 フィリピン 6 7 1944年12月5日 LSM-20 中型揚陸艦 フィリピン 8 9 1944年12月7日 マハン 駆逐艦 フィリピン 18 31 1944年12月7日 LSM-318 中型揚陸艦 フィリピン 3 3 1944年12月7日 ワード 輸送駆逐艦 フィリピン 0 5 1944年12月10日 PT-323(英語版) 魚雷艇 フィリピン 0 10 1944年12月10日 レイド(駆逐艦)(英語版) 駆逐艦 フィリピン 150 不明 1944年12月11日 ウィリアム S. ラッド(英語版) リバティ型輸送艦 フィリピン 0 10 1944年12月15日 LST-472 戦車揚陸艦 フィリピン 8 9 1944年12月15日 LST-738(英語版) 戦車揚陸艦 フィリピン 1 11 1944年12月18日 PT-300 魚雷艇 フィリピン 8 7 1944年12月21日 LST-460 戦車揚陸艦 フィリピン 約100 不明 1944年12月21日 LST-749 戦車揚陸艦 フィリピン 30 10 1944年12月28日 ジョン・バーク 弾薬輸送艦 フィリピン 69 0 1944年12月28日 FS船(Freight and Supply Ship) 陸軍貨物・補給船 フィリピン 不明 不明 1944年12月30日 ポーキュパイン(艦隊給油艦)(英語版) 艦隊給油艦 フィリピン 7 8 1945年1月4日 オマニー・ベイ 護衛空母 フィリピン 98 65 1945年1月5日 リュース・L・ダイチ 弾薬輸送艦 フィリピン 71 0 1945年1月6日 ロング 駆逐艦 フィリピン 1 35 1945年2月21日 ビスマーク・シー 護衛空母 硫黄島 318 99 1945年4月2日 ディカーソン 輸送駆逐艦 沖縄 54 97 1945年4月6日 ブッシュ 駆逐艦 沖縄 94 32 1945年4月6日 コルホーン 駆逐艦 沖縄 35 21 1945年4月6日 エモンズ 掃海駆逐艦 沖縄 64 71 1945年4月6日 ホッブス・ビクトリー(英語版) 弾薬輸送船 沖縄 13 2 1945年4月6日 ローガン・ビクトリー(英語版) 弾薬輸送船 沖縄 15 9 1945年4月7日 LST-477 戦車揚陸艦 沖縄 5 17 1945年4月12日 マナート・L・エベール 駆逐艦 沖縄 82 32 1945年4月12日 LCS-36(英語版) 上陸支援艇 沖縄 4 29 1945年4月16日 プリングル 駆逐艦 フィリピン・沖縄(合計2回) 76 120 1945年4月22日 スワロー(掃海艦)(英語版) 掃海艦 沖縄 2 9 1945年4月22日 LCS-15(英語版) 上陸支援艇 沖縄 15 11 1945年4月27日 カナダ・ビクトリー(英語版) ビクトリー型輸送艦 沖縄 3 5 1945年5月3日 リトル 駆逐艦 沖縄 62 47 1945年5月4日 LSM(R)-195(英語版) 中型揚陸艦(ロケット) 沖縄 8 16 1945年5月4日 モリソン 駆逐艦 沖縄 152 102 1945年5月4日 ルース 駆逐艦 沖縄 150 94 1945年5月4日 LSM(R)-190(英語版) 中型揚陸艦(ロケット) 沖縄 13 18 1945年5月4日 LSM(R)-194(英語版) 中型揚陸艦(ロケット) 沖縄 13 23 1945年5月9日 オバーレンダー 護衛駆逐艦 沖縄 54 51 1945年5月20日 LST-808 戦車揚陸艦 沖縄 17 11 1945年5月25日 ベイツ(輸送駆逐艦)(英語版) 輸送駆逐艦 沖縄 21 35 1945年5月25日 LSM-135(英語版) 中型揚陸艦 沖縄 11 10 1945年5月28日 ドレクスラー 駆逐艦 沖縄 168 52 1945年6月10日 ウィリアム・D・ポーター 駆逐艦 沖縄 0 61 1945年6月16日 トゥィッグス(駆逐艦)(英語版) 駆逐艦 沖縄 193 34 1945年6月21日 LSM-59 中型揚陸艦 沖縄 2 8 1945年6月21日 バリー 輸送駆逐艦 沖縄 0 30 1945年7月26日 ヴェステル(イギリス海軍掃海艦)(英語版) イギリス海軍掃海艦 プーケット 20 不明 1945年7月28日 キャラハン 駆逐艦 沖縄 47 73 1945年8月19日 КТ-152 ソビエト連邦軍掃海艇 占守島 17 不明 合計 55隻 2,462名 1,909名 ※ソノマとLCI1065は、日本で最初の特攻と言われる神風特攻隊敷島隊等より前の沈没艦であるが、アメリカ軍の公式記録上は特攻機(suicide plane)によるものとなっている。
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航空特攻
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※修理のために長期離脱したか、人的損失を被った艦船のみ計上。 艦名艦種場所戦死者負傷者リドル(輸送駆逐艦)(英語版) 輸送駆逐艦 フィリピン 36 22 アメン(駆逐艦)(英語版) 輸送駆逐艦 フィリピン 5 21 アンダーソン(駆逐艦)(英語版) 駆逐艦 フィリピン 16 20 クラックトン(駆逐艦)(英語版) 駆逐艦 フィリピン 5 23 コールドウェル(輸送駆逐艦)(英語版) 輸送駆逐艦 フィリピン 33 40 アウリック(駆逐艦)(英語版) 駆逐艦 フィリピン 32 64 ラムソン(駆逐艦)(英語版) 駆逐艦 フィリピン 25 54 ヒューズ(駆逐艦)(英語版) 駆逐艦 フィリピン 14 26 ドレイトン(駆逐艦)(英語版) 駆逐艦 フィリピン 6 12 マグフォード(駆逐艦)(英語版) 駆逐艦 フィリピン 8 16 ハラデン(駆逐艦)(英語版) 駆逐艦 フィリピン 14 24 ガンズヴォート(駆逐艦)(英語版) 駆逐艦 フィリピン 17 15 アレン・M・サムナー 駆逐艦 フィリピン 14 19 ウォーク 駆逐艦 フィリピン 13 33 ルレ―・ウィルソン(護衛駆逐艦)(英語版) 護衛駆逐艦 フィリピン 6 7 ギリガン(護衛駆逐艦) (英語版) 護衛駆逐艦 フィリピン 12 13 スタフォード(掃海駆逐艦) (英語版) 掃海駆逐艦 フィリピン 2 12 アランタ(駆逐艦) (英語版) オーストラリア軍駆逐艦 フィリピン 2 4 マドックス 駆逐艦 台湾沖 10 30 ハルゼー・パウエル 駆逐艦 室戸沖 12 29 キンバリー 駆逐艦 沖縄 4 57 オブライエン(駆逐艦) (英語版) 駆逐艦 沖縄 50 76 ハワース(駆逐艦) (英語版) 駆逐艦 沖縄 9 14 マラニー 駆逐艦 沖縄 30 36 ハイマン (駆逐艦) (英語版) 駆逐艦 沖縄 11 41 ヘインズワース (駆逐艦) (英語版) 駆逐艦 沖縄 14 20 スタンリー 駆逐艦 沖縄 0 3 ロッドマン (掃海駆逐艦) (英語版) 掃海駆逐艦 沖縄 16 20 ウエッソン (護衛駆逐艦) (英語版) 護衛駆逐艦 沖縄 8 23 ベネット (駆逐艦) (英語版) 駆逐艦 沖縄 7 14 ハンク (駆逐艦) (英語版) 駆逐艦 沖縄 4 6 キッド 駆逐艦 沖縄 38 55 マンラブ (護衛駆逐艦) (英語版) 護衛駆逐艦 沖縄 1 10 リドル (護衛駆逐艦) (英語版) 護衛駆逐艦 沖縄 1 9 ベニオン (駆逐艦) (英語版) 駆逐艦 沖縄 1 6 ロール(護衛駆逐艦) (英語版) 護衛駆逐艦 沖縄 21 38 ホワイトハースト(輸送駆逐艦)(英語版) 輸送駆逐艦 沖縄 37 37 リンゼー(掃海駆逐艦) (英語版) 掃海駆逐艦 沖縄 52 60 シェイ(掃海駆逐艦) (英語版) 掃海駆逐艦 沖縄 27 97 シグズピー(駆逐艦) (英語版) 駆逐艦 沖縄 22 74 ウィルソン(駆逐艦) (英語版) 駆逐艦 沖縄 5 3 ラッフェイ(駆逐艦) (英語版) 駆逐艦 沖縄 32 71 ブライアント(駆逐艦)(英語版) 駆逐艦 沖縄 34 33 マクダ―マット(駆逐艦)(英語版) 駆逐艦 沖縄 2 33 ホブソン(駆逐艦)(英語版) 駆逐艦 沖縄 4 8 ボワーズ(輸送駆逐艦)(英語版) 輸送駆逐艦 沖縄 48 59 イシャーウッド(駆逐艦) (英語版) 駆逐艦 沖縄 42 41 ラルフ・タルボット(駆逐艦) (英語版) 駆逐艦 沖縄 5 9 ダリー(駆逐艦) (英語版) 駆逐艦 沖縄 3 33 ヘイゼルウッド 駆逐艦 沖縄 46 36 マコーム(駆逐艦) (英語版) 駆逐艦 沖縄 7 14 イングラハム(駆逐艦) 駆逐艦 沖縄 15 36 ロウリ― (駆逐艦)(英語版) 駆逐艦 沖縄 2 23 グウィン(掃海駆逐艦) (英語版) 掃海駆逐艦 沖縄 2 11 ストームズ (駆逐艦)(英語版) 駆逐艦 沖縄 21 15 オニール (護衛駆逐艦)(英語版) 護衛駆逐艦 沖縄 2 17 パーディ (駆逐艦)(英語版) 駆逐艦 沖縄 15 58 ゼラース (駆逐艦)(英語版) 駆逐艦 沖縄 29 37 バッチ 駆逐艦 沖縄 57 32 ブレイン (駆逐艦) (英語版) 駆逐艦 沖縄 66 78 レッドナー(輸送駆逐艦)(英語版) 輸送駆逐艦 沖縄 3 13 ロイ(護衛駆逐艦) (英語版) 護衛駆逐艦 沖縄 3 15 ダグラスH.フォックス(駆逐艦) (英語版) 駆逐艦 沖縄 9 35 ハロラン (護衛駆逐艦)(英語版) 護衛駆逐艦 沖縄 3 24 エリソン 掃海駆逐艦 沖縄 1 4 カシンヤング(駆逐艦) (英語版) 駆逐艦 沖縄(合計2回) 23 104 ホラス・A・バス(輸送駆逐艦)(英語版) 輸送駆逐艦 沖縄 1 15 ボリー(駆逐艦) (英語版) 駆逐艦 沖縄 48 66 テラー(掃海艦) (英語版) 掃海艦 沖縄 48 123 LSM-23 中型揚陸艦 フィリピン 8 7 LSM(R)-188(英語版) 中型揚陸艦(ロケット) 沖縄 15 32 LST-700 戦車揚陸艦 フィリピン 4 10 LST-605 戦車揚陸艦 フィリピン 5 11 LST-477 戦車揚陸艦 フィリピン 9 5 LST-912 戦車揚陸艦 フィリピン 4 4 LST-884 戦車揚陸艦 沖縄 24 21 LST-534 戦車揚陸艦 沖縄 3 35 LCT-1075 戦車揚陸艇 フィリピン 2 9 LCS-116 上陸支援艇 沖縄 12 12 LCS-57 上陸支援艇 沖縄 2 6 LCS-88 上陸支援艇 沖縄 7 9 LCS-31 上陸支援艇 沖縄 9 12 LCS-25 上陸支援艇 沖縄 1 8 LCS-119 上陸支援艇 沖縄 26 24 LCS-122 上陸支援艇 沖縄 11 29 LCS-52 上陸支援艇 沖縄 1 10 LCI-70 歩兵揚陸艇 フィリピン 6 9 LCI-90 歩兵揚陸艇 沖縄 1 7 オレステス(魚雷艇補給艦) (英語版) 魚雷艇補給艦 フィリピン 59 109 アキレス(ドッグ艦) (英語版) ドッグ艦 フィリピン 33 28 キーオカック(防潜網輸送船) (英語版) 防潜網輸送船 硫黄島 17 44 コンフォート(病院船) 病院船 沖縄 30 48 ピンクニ―(傷病者輸送艦) (英語版) 傷病者輸送艦 沖縄 35 12 ゼイリン(攻撃輸送艦) (英語版) 攻撃輸送艦 フィリピン 10 30 ドゥ・ページ(攻撃輸送艦)(英語版) 攻撃輸送艦 フィリピン 32 157 アケルナル(攻撃輸送艦) (英語版) 攻撃輸送艦 沖縄 5 41 ヒンズデール(攻撃輸送艦) (英語版) 攻撃輸送艦 沖縄 16 39 アルパイン(攻撃輸送艦) (英語版) 攻撃輸送艦 フィリピン・沖縄(合計2回) 21 31 キャラウェイ(攻撃輸送艦) (英語版) 攻撃輸送艦 沖縄 29 22 グッドヒュー(攻撃輸送艦) (英語版) 攻撃輸送艦 沖縄 24 119 ヘンライコ(攻撃輸送艦) (英語版) 攻撃輸送艦 沖縄 49 125 テルフェア(攻撃輸送艦) (英語版) 攻撃輸送艦 沖縄 1 16 サンドバル(攻撃輸送艦) (英語版) 攻撃輸送艦 沖縄 8 26 ラグランジ(攻撃輸送艦) (英語版) 攻撃輸送艦 沖縄 21 89 レオニダス・メリット リバティ型輸送艦 フィリピン(合計2回) 58 33 アレキサンダー・メイジャーズ リバティ型輸送艦 フィリピン 2 15 ウィリアムAコルター リバティ型輸送艦 フィリピン 0 69 マシューPデェディ リバティ型輸送艦 フィリピン 61 104 モリソンRウェイト リバティ型輸送艦 フィリピン 21 43 ジェレミーMデイリー リバティ型輸送艦 フィリピン 106 43 トーマス・ネルソン リバティ型輸送艦 フィリピン 168 88 マーカス・デイリー (英語版) リバティ型輸送艦 フィリピン 203 49 キールVジョンソン リバティ型輸送艦 フィリピン 130 9 ジルバート・スチュワート リバティ型輸送艦 フィリピン 11 11 アルコア・パイオニア リバティ型輸送艦 フィリピン 6 13 ジャン・デ・フカ リバティ型輸送艦 フィリピン 2 17 ウィリアム・シャロン リバティ型輸送艦 フィリピン 11 11 マリーAリバーモア リバティ型輸送艦 沖縄 11 6 ブラウン・ビクトリー ビクトリー型輸送艦 沖縄 4 16 ウォルター・コルトン リバティ型輸送艦 沖縄 0 76 M・S・チサダネ オランダ軍輸送艦 沖縄 4 9 合計 114隻 2,550名 4,028名
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