航空特攻とは? わかりやすく解説

航空特攻

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特別攻撃隊」の記事における「航空特攻」の解説

詳細は「神風特別攻撃隊」を参照 1944年10月5日大西瀧治郎中将第一航空艦隊司令長官内定した大西は「震洋」「回天」「桜花」など海軍特攻兵器開発開始していることを知っており、航空特攻を採用しよう考えていた。大西フィリピン出発する前に海軍省大臣米内光政現地特攻を行う決意語り承認得て軍令部総長及川古志郎に対して決意語り、「決し命令はしないように。戦死者処遇に関して考慮します。」「指示はしない現地自発的実施には反対しない」と及川承認得た大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した。また大西発表に関する打ち合わせ行い事前に中央発表に関して大西からの指示を仰ぐ電文用意し事後発信している。 フィリピン進出する前に大西台湾立ち寄り連合艦隊司令長官豊田と共に台湾沖航空戦戦局見守っていたが、台湾新竹上空繰り広げられ零戦F6Fヘルキャット空戦見て日本軍の不利を悟って、不利を克服して勝機を掴むのは敵空母対す体当たりしかないと意を強くした。10月15日に敵空母特攻おこなった有馬行動大西後押しするかたちとなり、豊田特攻戦術採用について「単独飛行がやっとの練度現状では被害見合う戦果期待できない体当たり攻撃しかない、しかし命令ではなくそういった空気にならなければ実行できない」と自分の考え述べるなど、長い時間打ち合わせした後に、10月17日フィリピンマニラに向け出発したフィリピン到着する前任者である寺岡謹平特攻隊構想打ち明けて同意求めたが、寺岡後任大西一任した。 大西1944年10月19日夕刻に第201海軍航空隊司令部のあるマバラカット訪れ司令部として借上げていた洋館副長玉井浅一中佐 や1航艦首参謀猪口力平中佐航空隊幹部招集し、「戦局はみなも承知通りで、今度捷号作戦にもし失敗すればそれこそ由々しい大事をまねくことになる。従って、1航艦としては、是非とも栗田部隊レイテ突入成功せねばならないが、そのためには敵の機動部隊叩いて少なくとも1週間ぐらい、敵の空母甲板使えないようにする必要があると思う。」「そのためには、零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃法はないと思うが・・・どうだろうか?」と自分の考え披瀝(ひれき)した。航空隊幹部らもかねてから同じようなことを考えていたが、玉井即答避け一度席を外し先任飛行長の指宿正信大尉協議した後、大西意見同意した玉井はさらに「攻撃隊の編制については、全部航空隊任せて下さい。」と人選については一任申し出大西承諾得た玉井士気高揚させるために指揮官となる士官海軍兵学校出身現役士官がいいと考え戦闘機搭乗員菅野直考えた東京出張であったので、艦上爆撃機搭乗員関行男大尉ではどうか?と猪口聞き海軍兵学校時代に関の教官であった猪口同意した猪口玉井は関を士官室に呼ぶと特攻隊指揮官となることを打診し、関は少し考えた応諾した。 翌10月20日午前10時大西編成され特攻隊4部敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊全特隊員24名を前にして、「日本正に危機である。しかも、この危機救い得る者は、大臣でも大将でも軍令部総長でもない、もちろん自分のような長官でもない。それは諸子如き純真にして気力満ちた若い人々のみである。従って自分一億国民代わり、皆にお願いする。どうか、成功を祈る。皆は、既に神である。神であるから欲望はないであろう、が、あるとすれば、それは自分体当たりが、無駄ではなかったか、どうか、それを知りたいことであろう。しかし皆は永い眠りに就くのであるから、残念ながら知ることもできないし、知らせることもできない。だが、自分はこれを見届けて必ず上聞達するようにするから、そこは、安心して行ってくれ・・・しっかり頼む。」と訓示した。訓示の後、大西涙ぐみながら隊員1人1人と熱い握手交わした日本海軍では、航空機による体当たり攻撃を「神風特別攻撃隊」として統一名で呼称した。名称は猪口発案よるもので、郷里の古剣術道場神風しんぷう)流」から名付けたのである一方で201航空隊飛行中島正少佐証言では「かみかぜ」と読む。 神風特別攻撃隊初出撃1944年10月21日であった。全24機が出撃したが悪天候などに阻まれ、ほぼ全機帰還したが、大和隊長久納好孚中尉が未帰還23日大和佐藤馨上飛曹が未帰還となっている。関は酷い下痢絶食しており疲労感見て取れたが、25日出撃前に索敵しながら南下し発見次第突入します。」と自ら提案し確実に突入する覚悟示したその日4度目出撃で関率い敷島隊の6機は、サマール沖海戦戦った直後タフィ―3を発見し突入した。内1機がアメリカ護衛空母セント・ロー撃沈大和隊の4機、朝日隊の1機、山桜隊の2機、菊水隊の2機、若桜隊の1機、彗星隊の1機等が次々突入し護衛空母を含む5隻に損傷与え戦果挙げ、直援機であった西沢広義曹長によりその戦果確認された。これを大本営海軍部は大々的発表し新聞号外報じた敷島指揮官であった関は軍神呼ばれ、母が住む実家前には「軍神関行男海軍大尉之家」と書いた案内立てられて、多く弔問客訪れた10月26日及川古志郎軍令部総長神風特攻隊戦果奏上し昭和天皇大元帥)から、「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」と御嘉賞勅語賜ったまた、10月30日には米内光政海軍大臣に、「かくまでねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と発言した大西はこの昭和天皇お言葉を、作戦指導対す叱責感じて恐れ入り、翌27日参謀猪口に「こんなことしなければならないのは日本作戦指導がいかにまずいかを表している。統帥外道だよ。」と語っている。 神風特攻隊編成当初は、参謀猪口が「特攻隊はわずか4隊でいいのですか?」と訊ねたのに対し、「飛行機がないからなぁ、やむをえん。」と特攻一度きり止めたいとの意向示していた大西であったが、10月23日時点大西第1航空艦隊連日戦闘による消耗で、戦闘機30機、その他20機の合計50機まで稼働機数が激減していたため、もはや特攻を軸に戦う外ないという考え至った10月23日クラーク基地進出してきた第二航空艦隊350機)の福留繁第2航空艦隊長官大西特攻採用強く説いたが、福留特攻採用による搭乗員士気喪失懸念従来大編隊による通常攻撃固執し大西申し入れ拒否している。 10月23日25日まで第1航空艦隊特攻並行して第2航空艦隊250機の総力投じ従来航空通常攻撃行ったが、軽空母プリンストン大破(後にアメリカ軍により処分)、アシュタブラ (タンカー)(英語版大破駆逐艦ロイツェ損傷戦果対し大量航空機喪失した少数特攻機第2航空艦隊上回る戦果挙げた大西は、再度福留に「特別攻撃以外に攻撃法がないことは、もはや事実により証明された。この重大時期基地航空部隊無為に過ごすことがあれば全員腹切ってお詫びしても追いつかぬ。第2航空艦隊としても特別攻撃決意すべきだと思う」と迫った福留幕僚協議し10月26日特攻を行うことに同意した第1航空艦隊第2航空艦隊特攻採用したため、よりその機能発揮させる目的で、両航空艦隊統合した連合基地航空隊編成し先任福留司令官とし大西参謀長となった10月27日大西によって特攻隊編成方法命名方法発表方針などが軍令部海軍省海軍航空本部など中央通達された。 連合基地航空隊には北東方面艦隊12航空艦隊戦闘機部隊や、空母配属する予定であった第3航空艦隊大部分などが順次増援として送られ特攻投入されたが、戦力消耗激しく大西上京し更なる増援大本営連合艦隊訴えた大西300機の増援求めたが、連合艦隊は、大村海軍航空隊元山海軍航空隊筑波海軍航空隊神ノ池海軍航空隊の各教育航空隊から飛行100時間程度搭乗員教官から志願募るなど苦心惨憺して、ようやく150機をかき集めている。これらの隊員猪口により台湾台中台北10日集中的に訓練された後フィリピン送られた。 大西強引な特攻隊拡大批判的な航空幹部もいたが、大西は「今後俺の作戦指導対す批判は許さん」と指導している。大西大阪毎日新聞特派員後藤基治からの「なんで特攻続けるのですか?」という質問に対して幕末会津藩白虎隊の例を出して、「ひとつの藩の最後でもそうだ」「ここで青年が起たなければ日本滅びるだろう。青年たちが国難殉じていかに戦ったということ歴史記憶しているかぎり、日本人滅びことはないだろう。」と答えその後特攻推進していった。しかし大西は深い憂鬱に囚われており、副官門司親徳大尉へ「わが声価は、を覆うて定まらず100年ののち、また知己を得ないだろう」とつぶやいている。 少数特攻機大きな成果挙げたことはアメリカ軍側に大きな衝撃与えたレイテ島上陸作戦行ったアメリカ海軍水陸両用部隊参謀レイ・ターバック大佐は「この戦闘見られ新奇なものは、自殺的急降下攻撃である。敵が明日撃墜されるはずの航空機100機を保有している場合、敵はそれらの航空機今日自殺的急降下攻撃使用して艦船100隻を炎上させるかもしれない対策早急に講じられなければならない。」と考え物資兵員輸送揚陸には、攻撃輸送艦APA)や攻撃貨物輸送艦(AKA)といった装甲の薄い艦船ではなく輸送駆逐艦APD)や戦車揚陸艦LST)など装甲の厚い艦船多用すべきと提言している。またアメリカ軍は、最初の特攻成功した10月25日以降病院船特攻被害を被る可能性の高いレイテ湾への入港禁止したが、レイテ島の戦いでの負傷者救護する必要に迫られ3時間だけ入港し負傷者素早く収容して出港するという運用をせざるを得なくなったフィリピンの戦い指揮した南西太平洋方面軍最高司令官ダグラス・マッカーサー大将)のメルボルン海軍部は、指揮下の全艦艇に対してジャップ自殺機による攻撃が、かなりの成果挙げているという情報は、敵にとって大きな価値があるという事実から考えて中略公然と議論することを禁止し、かつ第7艦隊司令官は同艦隊その旨伝達した」とアメリカとイギリスオーストラリア徹底した報道管制敷いた。これはニミッツ太平洋方面軍同様の対応をしており、特攻に関する検閲太平洋戦争中でもっとも厳重な検閲となっている。南西太平洋方面軍は更に、休暇等で帰還するアメリカ・オーストラリア兵士に対して徹底した緘口令かんこうれい)を敷いている。 アメリカ軍兵士士気与えた影響大きくパニック神風ノイローゼ陥るものもいた。特攻開始後に、空母ワスプ乗組員123名に健康検査行ったところ戦闘行え健常者30%で、他は全部精神的な過労休養が必要と診察された。本来アメリカ海軍は、艦内での飲酒固く禁じていたが、カミカゼ脅威対峙(たいじ)する兵士窮状を診かねた軍医から第7水陸両用部隊司令ダニエル・バーベイ(英語版少将へ、兵士らのカミカゼへの恐怖振り払わせるために艦内での飲酒解禁提案があり、兵士らは貯蔵してあったバーボン・ウィスキー士気高揚剤として支給されている。酔った勢いカラ元気は、カミカゼ対抗するために利用され一つ武器となった。それでも、精神病発症するアメリカ海軍兵士増加し開戦後1,000人中9.5人の発症率であったのが、1944年特攻開始時では1,000人中14.2人に跳ね上がっている。この要因合衆国艦隊司令長官海軍作戦部長アーネスト・キングは「現代戦テンポ早さ兵士疲労させたことと、予想もされない恐怖特攻)によるものである。」と分析していた。アメリカ軍特攻兵器を扱う日本軍兵士を、特別な素質持った軍人考え陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル陸軍省特攻報告をおこなう際に、「もし、敵の勇気軽視するようなことがあれば、わが軍勝利を危うくすることになろう。」という意見添えている。 その後特攻機次々とアメリカ軍主力高速空母部隊第38任務部隊正規空母突入して大損害を与えていった。1944年10月29日イントレピッド10月30日フランクリンベローウッド11月5日レキシントン11月25日エセックスカボット大破中破戦線離脱追い込まれ、他にも多数艦船撃沈破された。 特攻機による空母部隊大損害により、第38任務部隊司令ウィリアム・ハルゼー・ジュニア11月11日計画していた艦載機による初の大規模な東京空襲中止追い込まれた。ハルゼーこの中止の判断にあたって少なくとも、(特攻対する)防御技術が完成するまでは 大兵力による戦局決定的にするような攻撃だけが、自殺攻撃高速空母をさらすことを正当化できる」と特攻対策強化検討要求している。 フィリピン戦での特攻による損害重く見たアメリカ海軍は、最初の特攻被害からわずか1か月後の1944年11月24日から26日3日間に渡りサンフランシスコにて、ワシントンからアメリカ海軍省首脳と、真珠湾から太平洋艦隊司令部幕僚と、フィリピン前線から第三艦隊司令ハルゼー第38任務部隊司令ミッチャー少将海軍中央から実戦部隊までの幕僚らが一堂会して異例とも言える特攻対策集中会議行った。その会議様々な特攻対策検討され一部実現されていった(#特攻対策参照)。その中の一つで、12月14日12月16日まで500機の戦闘爆撃機40機の夜間戦闘機により、日本軍特攻基地集中攻撃する「ブルーブランケット」作戦が行われ、アメリカ軍170機の特攻機地上撃破した主張したが、特攻衰えことなくミンドロ島ルソン島侵攻してくるアメリカ軍艦隊襲い掛かり1945年1月4日護衛空母オマニー・ベイ撃沈するなど、フィリピン戦の期間を通じてアメリカ軍艦船22隻を撃沈、110隻以上を損傷させた。 フィリピンでの特攻最高潮達したのが、1945年1月6日連合軍ルソン島上陸作戦のためリンガエン湾侵入したときで、フィリピン基地から出撃した32機の特攻機の内12機が命中し7機が有効至近弾となり連合軍多大な損害被った戦艦ニューメキシコには、イギリス海軍太平洋艦隊司令ブルース・フレーザー大将と、イギリス陸軍観戦武官のハーバード・ラムズデン(英語版中将乗艦していたが、その艦橋特攻機突入ラムスデン中将フレーザー大将副官戦死し上陸作戦指揮した南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサー大将衝撃受けている。マッカーサー自身乗艦していた軽巡洋艦ボイシ甲標的特攻機攻撃されたが損害はなかった。マッカーサー特攻機アメリカ艦隊戦闘見てありがたい。奴らは我々の軍艦狙っているが、ほとんどの軍艦一撃くらって耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の軍隊輸送船これほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう。」と感想述べている。日本軍攻撃目標選定ミス指摘しながらも、特攻ルソン島の戦い帰趨(きすう)を左右するような威力有していると懸念していたもの思われる

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航空特攻

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特別攻撃隊」の記事における「航空特攻」の解説

詳細は「万朶隊」を参照 陸軍特攻鉾田教導飛行師団万朶隊浜松教導飛行師団富嶽隊によって最初に行われた通常の編成航空本部から電文命令されるが、命令天皇介するため、任命電報送れず、菅原道大中将編成担当者任務与えて派遣した万朶隊は、1944年10月4日航空総監部から鉾田教導飛行師団九九軽装備の特攻隊編成連絡があった。10月13日師団長今西六郎中将航空総監連絡して特攻部隊の編成打ち合わせ中旬九九双軽の特攻改修機が到着した特攻改修機とは、機首風防ガラスから3m起爆3本突出させ海軍八十番徹甲爆弾積載できるように改修されたものであり、投下装置への配線未実装であった不時着時の主脚への負担安全面配慮からか内地にて手動索で投下できるように、安全装置機上にて解脱できるよう改修が行われ、機首起爆管も1本とした(その結果速度の向上が見られた)。 10月20日参謀本部から編成命令下され21日岩本益臣大尉以下16名が決定した22日航空総監代理による総監訓示が行われ、今西師団長訓示を行う。26日九九双軽の特攻隊フィリピンリパ到着29日万朶隊命名されたが、この名前は、梅津美治郎参謀総長藤田東湖の「正気の歌」から命名したものであった万朶隊初出撃を待つが11月5日岩本操縦する九九双軽で第4航空軍司令部作戦打ち合わせ向かった際にアメリカ軍戦闘機撃墜され同乗中の将校含めて5名全員戦死した万朶隊岩本が「航法天才」と呼ばれていたなど、全員鉾田教導飛行師団精鋭をもって組織されていたため、出撃前の大損となった11月12日田中逸夫曹長以下4機が、岩本らの遺骨抱いてレイテ湾出撃し、全機帰還戦艦1隻、輸送艦1を撃沈したとして、南方軍司令官寺内寿一大将より感状授与された。しかしこの戦果は、海軍神風特別攻撃隊空母撃沈したという戦果発表張り合って陸軍戦艦撃沈したという過大戦果発表であり、実際にアメリカ軍がこの日に被った損害工作艦2隻の損傷のみであった。この日出撃した万朶隊の4機は全員戦死思われていたが、後に佐々木友次伍長敵艦体当たりせず通常攻撃行いミンダナオ島カガヤン飛行場英語版)に生還していたことが判明している。佐々木この後出撃繰り返したが、敵艦突入することなくいずれも生還している。 富嶽隊は、浜松教導飛行師団長川上淸志少将特攻隊編成内示を受けると、同師団の第1教導飛行隊を母隊として編成し1944年10月24日から特別任務要員として南方派遣した26日参謀総長代理菅原道大航空総監臨席して出陣式が行われ、富嶽隊と命名された。四式重爆撃機飛龍には海軍より支給され八十番徹甲爆弾2発を搭載する代わりに軽量化のために爆撃装備や副操縦席に至るまですべてが撤去され機首尾部風防ガラスベニヤ板変えられ特攻改修機を配備された。四式重爆撃機には通常8名(機長操縦士整備兵2名、通信士爆撃手機銃手など4名)が搭乗するが、「と」号機には操縦者機関員(ないし通信員)の2名のみが搭乗した富嶽隊もフィリピン到着後、こちらも待機していたが11月7日早朝初出撃した。この出撃空振り終わり山本中尉機が未帰還となった富嶽隊は13日に、隊長西尾常三郎少佐以下6名が米機動部隊突入して戦死し戦果確認機より戦艦1轟沈報告され南方軍より感状授与された。残った富嶽隊は、1945年1月12日まで順次出撃繰り返した1944年11月6日陸軍中央海軍小回りの利く零戦などの小型機による特攻成果挙げていることを知り明野教導飛行師団一式戦闘機などの小型機乗機とする特攻隊編成し、「八紘隊」と名付けフィリピン投入した名前の由来日本書紀淮南子)の「八紘をもって家となす」(八紘一宇)による。アメリカ軍レイテ上陸により、一時司令部ネグロス島移転していた第4航空軍司令官富永恭次中将11月7日マニラ軍司令部に戻ると、「八紘隊第1隊」「八紘隊第2隊」などと呼ばれていた各隊八紘隊、一宇隊、靖国隊、護国隊、鉄心隊、石腸隊と命名し、「諸子のあと第4航空軍飛行機全部続く、そして最後の1機に富永乗って体当たりをする決心である。安心して大任果たしいただきたい。」と訓示激励し軍司令官自ら隊一人一人握手し士気鼓舞している。後に八紘隊は、明野教導飛行師団・常陸教導飛行師団下志津教導飛行師団鉾田教導飛行師団などにより合計12隊まで編成され丹心隊、勤皇隊、一誠隊、殉義隊、皇魂隊、進襲隊と命名された。 八紘各隊は「十神十機よく十艦船屠る」と称されたほど、陸軍特攻隊では最も大きな戦果挙げた部隊と言われている。以下はすべて確実な戦果として、11月27日八紘隊(一式戦闘機「隼」)が戦艦コロラド」、軽巡洋艦セントルイス」、軽巡洋艦モントピリア」に突入して損害与え駆潜艇「SC-744」を撃沈11月29日靖国隊(一式戦「隼」)が戦艦メリーランド」、駆逐艦「ソーフリー」、駆逐艦オーリック」に突入し損害与えている。さらに12月13日には一宇隊(一式戦「隼」)あるいは海軍特別攻撃隊第2金剛隊軽巡洋艦ナッシュビル」に、1月5日には重巡洋艦ルイビル」に石腸隊あるいは進襲隊(九九式襲撃機)、1月8日には軽巡洋艦コロンビア」に鉄心隊あるいは石腸隊(九九式襲撃機)、1月9日には戦艦ミシシッピ」に一誠隊(一式戦「隼」)がそれぞれ突入し損害与えたなかでも靖国隊の一式戦「隼」突入した戦艦メリーランド」は大破炎上し修理のために翌1945年3月まで戦列離れている。メリーランド突入した一式戦「隼」は、の中から現れ急降下で同艦に突入する寸前機首上げて急上昇をはじめ、尾翼真下垂直上昇してまたに入ると、1秒後には太陽を背にしての急降下メリーランドの40.6cm砲(16インチ砲)を備える第1砲塔と第2砲塔中間の甲板突入したその間特攻機はまった対空射撃浴びことはなかった。その見事な操縦見ていたメリーランド水兵は、「これはもっとも気分のよい自殺である。あのパイロット一瞬の栄光輝きとなって消えたかったのだ」と日記書き、その特攻機曲芸飛行見ていたモントピリア艦長も「彼の操縦ぶりと回避運動見上げたものであった」と感心している。

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特別攻撃隊」の記事における「航空特攻」の解説

詳細は「菊水作戦」を参照 日本軍沖縄本島アメリカ軍上陸した1945年4月1日に「天一号作戦」を発動し海軍は「菊水作戦」、陸軍は「航空総攻撃」という作戦名九州台湾から航空特攻を行った特攻作戦最大規模実施されたのは、沖縄戦中の1945年4月6日菊水一号作戦発動時であり、翌7・8日と合わせて陸海軍合わせて300近く特攻機投入され多大な戦果挙げている。第54任務部隊司令モートン・デヨ少将)は9隻の戦艦巡洋艦と7隻の駆逐艦作戦中に特攻機による集中攻撃受けたが、まずは戦艦などの主力艦外周3,500m展開していた駆逐艦隊が最初目標となったその様子を旗艦戦艦テネシー乗艦していたサミュエル・モリソン少将目撃しているが、駆逐艦ブッシュコルホーン撃沈され、駆逐艦ニューコムロイツェ再起不能となる深刻な損傷被ったニューコムスリガオ海峡海戦西村艦隊戦艦への魚雷攻撃指揮したアメリカ軍駆逐艦中でもっとも敢闘精神旺盛な艦と評されていたが、特攻機戦艦ではなく自分たちへ突入したことに対し乗員が「どうして我々なんだ?」と困惑していたという。 この戦闘のように、駆逐艦損害集中したのが沖縄戦特攻作戦特徴である。アメリカ軍フィリピン戦での特攻による大損害を分析して様々な特攻対策講じたが、その一つ戦艦空母といった主力艦隊の外周レーダー搭載駆逐艦などのレーダーピケット艦配置し特攻機主力艦隊に到達する前に効果的な迎撃を行うというものであった。この対策により、空母などの主力艦への突入機数は減少したが、逆にレーダーピケット艦損害増大することとなり、「弱いヤギピケット艦)を犠牲に、特攻機)から群れ主力艦艇)を守るようなもの」 とか「まるで射的場標的の様な形で沖縄本島沖合に(駆逐艦が)配置されている」 と揶揄(やゆ)されている。アメリカ海軍水陸両用部隊司令リッチモンド・K・ターナー中将幕僚は、「艦隊より優秀な艦を選んでレーダーピケット艦としたが、それはそのピケット艦乗組員対す死刑宣告同然だった」と述懐している。デヨは駆逐艦消耗あまりに激しいため、「駆逐艦消耗具合容易ならざる水準達している」 と危機感募らせている。あまりに特攻レーダーピケット艦攻撃してくるので、駆逐艦ラフィー乗組員の1名が「Carriers This Way空母はあちら)」という意味の矢印書いた大きな看板掲げたこともあったが、ラフィーニューコム同じく5機の特攻受けて大破したレーダーピケット艦消耗により、早期警戒網を突破して主力艦隊に突入する特攻機増え戦艦空母といった主力艦損害次第増加していくこととなった4月12日には第54任務部隊旗艦戦艦テネシーにも2機の特攻機命中し死傷者199名の甚大な損傷受けている。デヨも艦橋目がけて突入してきた特攻機直前撃墜され九死に一生得ている。その際集中射撃してもなかなか撃墜できなかった特攻機見て彼奴らの体は何でできているのだろうか」と驚嘆している。 アメリカ海軍日本軍による航空特攻を少しでも和らげようと、アメリカ陸軍航空軍戦略爆撃機部隊B-29による航空支援要請行っている。海軍申し入れに対して第20空軍司令官カーチス・ルメイ少将は、日本の都市への焼夷弾による絨毯爆撃を一旦中止しB-29九州中心とする航空基地爆撃戦術爆撃任務に回すことを了承し延べ2,000機のB-29日本の都市工業地帯への絨毯爆撃から九州航空基地への攻撃転用されている。九州の各基地配置されていた戦闘機部隊B-29迎撃行ったが、海軍航空隊B-29迎撃不慣れであったため、陸軍航空隊主力となってその戦闘機による対空特攻行われた4月18日太刀洗飛行場来襲した112機のB-29のうちの1機「ゴナ.メイカー機には、飛行第4戦隊編成され特別攻撃隊回天制空隊」の指揮官である山本三男三郎少尉搭乗二式複座戦闘機屠龍体当たりし撃墜した5月7日にも同じ第4戦隊村田勉曹長機が「エンパイアエクスプレス」機に特攻して撃墜しているが、B-29これまで爆撃目標にしてきた大都市産業施設比べると、九州航空基地高射砲戦闘機による迎撃少なく損害軽微であった。 しかし、B-29分散していた特攻機十分に損害与えることができず、九州台湾航空基地にすぐに埋め戻される穴を開けたに過ぎなかったため、失望したアメリカ海軍5月中旬にはルメイへの支援要請取り下げB-29都市産業への戦略爆撃任務復帰しているが、B-29特攻機対策行った1か月上の期間は、都市産業施設への戦略爆撃軽減されることとなった初出撃失敗終わった桜花沖縄戦投入され4月12日3回目出撃駆逐艦マナート・L・エベール撃沈したアメリカ軍桜花自殺する愚かものが乗る兵器という意味で「BAKA」というニックネーム付けたが、一度発射されればほぼ迎撃不可能であり、アメリカ艦隊には桜花対す恐怖蔓延した。しかし、その後母機脆弱性制限要素となり、戦果は3隻の駆逐艦大破(2隻は除籍)させたに止まりアメリカ軍からは「この自殺兵器使用成功しなかった。」と評された。 特攻損傷した艦艇は、8隻の工作艦配置され慶良間諸島沖で応急修理なされていたが、常に多数損傷艦溢れ駆逐艦墓場呼ばれていた。それでも修理できない甚大な損害被った艦は群れをなし、ハワイ・アメリカ本土向けて太平洋渡っていった。そして損傷した艦や負傷した兵士代わりとして、アメリカ本土大西洋から新鋭艦や兵士沖縄送られていった従軍記者ハンソン・ボールドウィン(英語版)は「毎日絶え間ない警報連続だった。ぶっつづけ40日間毎日毎夜空襲があった。そのあと、やっと、悪天候おかげで短期間ながらほっと一息入れられのである。ぐっすり眠る、これが誰も憧れになり、夢となった。頭は照準器の上にいつし垂れ神経すりきれ誰もが怒りっぽくなった。艦長たちの目は真っ赤になり、恐ろしいほど面やつれした。敵の暗号解読しその意図判断する暗号分析班の活躍により、敵の大規模な攻撃事前に予測することができた。時には攻撃前夜に、乗員たちに戦闘準備警報がラウンドスピーカーで告げられた。しかし、これはやめねばならなかった。待つ間の緊張予期する恐怖、それが過去経験によっていっそう生々しく心に迫り、そのためヒステリー状態に陥り、発狂し、あるいは精神消耗状態におちいった者もあったのである。」と当時の様子語っている。 菊水作戦第10号まで行われアメリカ海軍沖縄戦において艦船36沈没368損傷航空機768機、人的損害として1945年4月から6月末で死者4,907名、負傷者4,824名を失ったが、これはアメリカ海軍第二次世界大戦上で最悪損害であった沖縄戦でのアメリカ海軍人的損失は、わずか3か月の間にヨーロッパ戦線太平洋戦線全体併せアメリカ海軍第二次世界大戦における人的損失20%達したという統計もある。沖縄戦でのアメリカ海軍、特にピケット艦任務は、ドイツ軍Uボート脅威晒され大西洋輸送船団護衛任務より遥かに厳しかったとの評価だった。第5艦隊内では、幕僚などから沖縄よりの一時撤退話題上ったほどであったが、第5艦隊司令レイモンド・スプルーアンス大将激怒しアメリカ艦隊特攻による大損害に耐えて沖縄止まった一方沖縄戦での特攻アメリカ軍特攻対策強化されたことにより、有効率下がって日本側の犠牲多かった。そのため、特攻効果があったのは奇襲効果のあったフィリピン戦のみで、末期沖縄戦特攻効果もないのに軍の面子惰性続けられたとする表現多く日本では過小評価されがちであるが、有効率フィリピン戦26.8%から沖縄戦14.7%で12%減に対し攻撃機数は約3倍(フィリピン戦650機、沖縄戦1,900機)であり、アメリカ海軍損害沖縄戦の方が遥かに大きかった特攻海軍艦艇大損害を被った沖縄戦アメリカ軍にとって大戦最大級衝撃であり、沖縄戦での特攻作戦を「十分な訓練受けていないパイロット旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦証明された。終戦時でさえ、日本本土接近する侵攻部隊対し日本空軍特攻攻撃によって重大な損害与え能力有していたことは明白である。」と総括している。また、アメリカ海軍は公式文書で特攻に対して「この死に物狂い兵器は、太平洋戦争で最も恐ろしい、最も危険な兵器になろうとしていた。フィリピンから沖縄までの血に染まった10ヶ月のあいだ、それは、我々にとって疫病のようなのだった」と率直に苦しみぬいた状況吐露している。モリソン沖縄戦での特攻を「ゼウス神の電光様に青空からうなり出てくる炎の恐怖」や「かつてこのような炎の恐怖責め苦火傷焼けつくような死に用いられ兵器無かった」と表現し、その特攻戦ったアメリカ軍駆逐艦乗りに対して沖縄の戦いの中で、来る日も来る日も、これらの艦船乗組員示した持続する勇気臨機応変の才、敢闘精神海軍歴史いくつも類例残している」と称賛している。 特攻機命中すると「何百メートルもの高さに達す火柱」が上がり沖縄本島上でアメリカ軍陸海空重囲下で戦う第32軍の将兵勇気づけたという。特攻機活躍一目見よう日本兵洞窟陣地から飛び出し特攻機命中する歓喜の声を上げて感謝の涙をこぼした特攻機活躍を見る行為兵士らは「特攻隊拝みに行く」という表現用い、「やったなぁご苦労さん」と地面に手をついて沖の方を拝んだ。ただ、いくら特攻損害与えて一向に減ることのないアメリカ軍艦艇見て次第将兵中にも失望感芽生え、1機でも2機でもいいから陸上アメリカ軍攻撃して欲しいと願う将兵増え、第32軍の参謀方面軍参謀長宛て航空部隊による地上支援要請打電行ったこともあった。 陸海で、アメリカ軍第二次世界大戦最大級損害被った沖縄戦がようやく終わると、イギリスウィンストン・チャーチル首相アメリカハリー・S・トルーマン大統領向けて「この戦いは、軍事史の中で最も苛烈名高いものであります。我々は貴方の全ての部隊とその指揮官敬意表します」と慰労称賛言葉送っている。

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航空特攻

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特攻で損害を受けた艦船の一覧」の記事における「航空特攻」の解説

沈没艦名艦種場所戦死者負傷者1944年10月24日 ソノマ(艦隊曳航船)(英語版艦隊曳航船 フィリピン 7 36 1944年10月24日 LCI-1065(英語版歩兵揚陸艦 フィリピン 13 8 1944年10月25日 セント・ロー 護衛空母 フィリピン 143 370 1944年11月1日 アブナー・リード 駆逐艦 フィリピン 23 56 1944年11月27日 SC-744 駆潜艇 フィリピン 6 7 1944年12月5日 LSM-20 中型揚陸艦 フィリピン 8 9 1944年12月7日 マハン 駆逐艦 フィリピン 18 31 1944年12月7日 LSM-318 中型揚陸艦 フィリピン 3 3 1944年12月7日 ワード 輸送駆逐艦 フィリピン 0 5 1944年12月10日 PT-323(英語版魚雷艇 フィリピン 0 10 1944年12月10日 レイド(駆逐艦)(英語版駆逐艦 フィリピン 150 不明 1944年12月11日 ウィリアム S. ラッド英語版リバティ輸送艦 フィリピン 0 10 1944年12月15日 LST-472 戦車揚陸艦 フィリピン 8 9 1944年12月15日 LST-738(英語版戦車揚陸艦 フィリピン 1 11 1944年12月18日 PT-300 魚雷艇 フィリピン 8 7 1944年12月21日 LST-460 戦車揚陸艦 フィリピン100 不明 1944年12月21日 LST-749 戦車揚陸艦 フィリピン 30 10 1944年12月28日 ジョン・バーク 弾薬輸送艦 フィリピン 69 0 1944年12月28日 FS船(Freight and Supply Ship) 陸軍貨物補給フィリピン 不明 不明 1944年12月30日 ポーキュパイン艦隊給油艦)(英語版艦隊給油艦 フィリピン 7 8 1945年1月4日 オマニー・ベイ 護衛空母 フィリピン 98 65 1945年1月5日 リュース・L・ダイチ 弾薬輸送艦 フィリピン 71 0 1945年1月6日 ロング 駆逐艦 フィリピン 1 35 1945年2月21日 ビスマーク・シー 護衛空母 硫黄島 318 99 1945年4月2日 ディカーソン 輸送駆逐艦 沖縄 54 97 1945年4月6日 ブッシュ 駆逐艦 沖縄 94 32 1945年4月6日 コルホーン 駆逐艦 沖縄 35 21 1945年4月6日 エモンズ 掃海駆逐艦 沖縄 64 71 1945年4月6日 ホッブス・ビクトリー(英語版弾薬輸送船 沖縄 13 2 1945年4月6日 ローガン・ビクトリー(英語版弾薬輸送船 沖縄 15 9 1945年4月7日 LST-477 戦車揚陸艦 沖縄 5 17 1945年4月12日 マナート・L・エベール 駆逐艦 沖縄 82 32 1945年4月12日 LCS-36(英語版上陸支援艇 沖縄 4 29 1945年4月16日 プリングル 駆逐艦 フィリピン沖縄合計2回) 76 120 1945年4月22日 スワロー掃海艦)(英語版掃海艦 沖縄 2 9 1945年4月22日 LCS-15(英語版上陸支援艇 沖縄 15 11 1945年4月27日 カナダ・ビクトリー(英語版ビクトリー輸送艦 沖縄 3 5 1945年5月3日 リトル 駆逐艦 沖縄 62 47 1945年5月4日 LSM(R)-195英語版中型揚陸艦ロケット沖縄 8 16 1945年5月4日 モリソン 駆逐艦 沖縄 152 102 1945年5月4日 ルース 駆逐艦 沖縄 150 94 1945年5月4日 LSM(R)-190英語版中型揚陸艦ロケット沖縄 13 18 1945年5月4日 LSM(R)-194英語版中型揚陸艦ロケット沖縄 13 23 1945年5月9日 オバーレンダー 護衛駆逐艦 沖縄 54 51 1945年5月20日 LST-808 戦車揚陸艦 沖縄 17 11 1945年5月25日 ベイツ輸送駆逐艦)(英語版輸送駆逐艦 沖縄 21 35 1945年5月25日 LSM-135(英語版中型揚陸艦 沖縄 11 10 1945年5月28日 ドレクスラー 駆逐艦 沖縄 168 52 1945年6月10日 ウィリアム・D・ポーター 駆逐艦 沖縄 0 61 1945年6月16日 トゥィッグス(駆逐艦)(英語版駆逐艦 沖縄 193 34 1945年6月21日 LSM-59 中型揚陸艦 沖縄 2 8 1945年6月21日 バリー 輸送駆逐艦 沖縄 0 30 1945年7月26日 ヴェステル(イギリス海軍掃海艦)(英語版イギリス海軍掃海艦 プーケット 20 不明 1945年7月28日 キャラハン 駆逐艦 沖縄 47 73 1945年8月19日 КТ-152 ソビエト連邦軍掃海艇 占守島 17 不明 合計 55隻 2,462名 1,909名 ※ソノマとLCI1065は、日本最初の特攻と言われる神風特攻隊敷島隊等より前の沈没艦であるが、アメリカ軍公式記録上は特攻機suicide plane)によるものとなっている。

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航空特攻

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特攻で損害を受けた艦船の一覧」の記事における「航空特攻」の解説

修理のために長期離脱したか、人的損失被った艦船のみ計上艦名艦種場所戦死者負傷者リドル輸送駆逐艦)(英語版輸送駆逐艦 フィリピン 36 22 アメン駆逐艦)(英語版輸送駆逐艦 フィリピン 5 21 アンダーソン駆逐艦)(英語版駆逐艦 フィリピン 16 20 クラックトン(駆逐艦)(英語版駆逐艦 フィリピン 5 23 コールドウェル輸送駆逐艦)(英語版輸送駆逐艦 フィリピン 33 40 アウリック(駆逐艦)(英語版駆逐艦 フィリピン 32 64 ラムソン(駆逐艦)英語版駆逐艦 フィリピン 25 54 ヒューズ駆逐艦)(英語版駆逐艦 フィリピン 14 26 ドレイトン(駆逐艦)(英語版駆逐艦 フィリピン 6 12 マグフォード(駆逐艦)(英語版駆逐艦 フィリピン 8 16 ハラデン(駆逐艦)(英語版駆逐艦 フィリピン 14 24 ガンズヴォート(駆逐艦)(英語版駆逐艦 フィリピン 17 15 アレン・M・サムナー 駆逐艦 フィリピン 14 19 ウォーク 駆逐艦 フィリピン 13 33 ルレ―・ウィルソン護衛駆逐艦)(英語版護衛駆逐艦 フィリピン 6 7 ギリガン(護衛駆逐艦) (英語版護衛駆逐艦 フィリピン 12 13 スタフォード掃海駆逐艦) (英語版掃海駆逐艦 フィリピン 2 12 アランタ(駆逐艦)英語版オーストラリア軍駆逐艦 フィリピン 2 4 マドックス 駆逐艦 台湾10 30 ハルゼー・パウエル 駆逐艦 室戸12 29 キンバリー 駆逐艦 沖縄 4 57 オブライエン(駆逐艦)英語版駆逐艦 沖縄 50 76 ハワース駆逐艦) (英語版駆逐艦 沖縄 9 14 マラニー 駆逐艦 沖縄 30 36 ハイマン駆逐艦) (英語版駆逐艦 沖縄 11 41 ヘインズワース (駆逐艦) (英語版駆逐艦 沖縄 14 20 スタンリー 駆逐艦 沖縄 0 3 ロッドマン掃海駆逐艦) (英語版掃海駆逐艦 沖縄 16 20 ウエッソン (護衛駆逐艦) (英語版護衛駆逐艦 沖縄 8 23 ベネット駆逐艦) (英語版駆逐艦 沖縄 7 14 ハンク駆逐艦) (英語版駆逐艦 沖縄 4 6 キッド 駆逐艦 沖縄 38 55 マンラブ (護衛駆逐艦) (英語版護衛駆逐艦 沖縄 1 10 リドル護衛駆逐艦) (英語版護衛駆逐艦 沖縄 1 9 ベニオン (駆逐艦) (英語版駆逐艦 沖縄 1 6 ロール護衛駆逐艦) (英語版護衛駆逐艦 沖縄 21 38 ホワイトハースト輸送駆逐艦)(英語版輸送駆逐艦 沖縄 37 37 リンゼー掃海駆逐艦) (英語版掃海駆逐艦 沖縄 52 60 シェイ掃海駆逐艦) (英語版掃海駆逐艦 沖縄 27 97 シグズピー(駆逐艦) (英語版駆逐艦 沖縄 22 74 ウィルソン駆逐艦) (英語版駆逐艦 沖縄 5 3 ラッフェイ(駆逐艦) (英語版駆逐艦 沖縄 32 71 ブライアント駆逐艦)(英語版駆逐艦 沖縄 34 33 マクダマット駆逐艦)(英語版駆逐艦 沖縄 2 33 ホブソン駆逐艦)(英語版駆逐艦 沖縄 4 8 ボワーズ(輸送駆逐艦)(英語版輸送駆逐艦 沖縄 48 59 イシャーウッド駆逐艦) (英語版駆逐艦 沖縄 42 41 ラルフ・タルボット(駆逐艦) (英語版駆逐艦 沖縄 5 9 ダリー駆逐艦) (英語版駆逐艦 沖縄 3 33 ヘイゼルウッド 駆逐艦 沖縄 46 36 マコーム(駆逐艦)英語版駆逐艦 沖縄 7 14 イングラハム(駆逐艦) 駆逐艦 沖縄 15 36 ロウリ― (駆逐艦)(英語版駆逐艦 沖縄 2 23 グウィン掃海駆逐艦) (英語版掃海駆逐艦 沖縄 2 11 ストームズ (駆逐艦)(英語版駆逐艦 沖縄 21 15 オニール護衛駆逐艦)(英語版護衛駆逐艦 沖縄 2 17 パーディ駆逐艦)(英語版駆逐艦 沖縄 15 58 ゼラース (駆逐艦)(英語版駆逐艦 沖縄 29 37 バッチ 駆逐艦 沖縄 57 32 ブレイン駆逐艦) (英語版駆逐艦 沖縄 66 78 レッドナー(輸送駆逐艦)(英語版輸送駆逐艦 沖縄 3 13 ロイ護衛駆逐艦) (英語版護衛駆逐艦 沖縄 3 15 ダグラスH.フォックス駆逐艦) (英語版駆逐艦 沖縄 9 35 ハロラン (護衛駆逐艦)(英語版護衛駆逐艦 沖縄 3 24 エリソン 掃海駆逐艦 沖縄 1 4 カシンヤング(駆逐艦) (英語版駆逐艦 沖縄(合計2回) 23 104 ホラス・A・バス輸送駆逐艦)(英語版輸送駆逐艦 沖縄 1 15 ボリー駆逐艦) (英語版駆逐艦 沖縄 48 66 テラー掃海艦) (英語版掃海艦 沖縄 48 123 LSM-23 中型揚陸艦 フィリピン 8 7 LSM(R)-188英語版中型揚陸艦ロケット沖縄 15 32 LST-700 戦車揚陸艦 フィリピン 4 10 LST-605 戦車揚陸艦 フィリピン 5 11 LST-477 戦車揚陸艦 フィリピン 9 5 LST-912 戦車揚陸艦 フィリピン 4 4 LST-884 戦車揚陸艦 沖縄 24 21 LST-534 戦車揚陸艦 沖縄 3 35 LCT-1075 戦車揚陸艇 フィリピン 2 9 LCS-116 上陸支援艇 沖縄 12 12 LCS-57 上陸支援艇 沖縄 2 6 LCS-88 上陸支援艇 沖縄 7 9 LCS-31 上陸支援艇 沖縄 9 12 LCS-25 上陸支援艇 沖縄 1 8 LCS-119 上陸支援艇 沖縄 26 24 LCS-122 上陸支援艇 沖縄 11 29 LCS-52 上陸支援艇 沖縄 1 10 LCI-70 歩兵揚陸艇 フィリピン 6 9 LCI-90 歩兵揚陸艇 沖縄 1 7 オレステス魚雷艇補給艦) (英語版魚雷艇補給艦 フィリピン 59 109 アキレスドッグ艦) (英語版ドッグフィリピン 33 28 キーオカック(防潜網輸送船) (英語版防潜網輸送船 硫黄島 17 44 コンフォート(病院船) 病院船 沖縄 30 48 ピンクニ―(傷病者輸送艦) (英語版傷病者輸送艦 沖縄 35 12 ゼイリン攻撃輸送艦) (英語版攻撃輸送艦 フィリピン 10 30 ドゥ・ページ(攻撃輸送艦)(英語版攻撃輸送艦 フィリピン 32 157 アケルナル攻撃輸送艦) (英語版攻撃輸送艦 沖縄 5 41 ヒンズデール攻撃輸送艦) (英語版攻撃輸送艦 沖縄 16 39 アルパイン攻撃輸送艦) (英語版攻撃輸送艦 フィリピン沖縄合計2回) 21 31 キャラウェイ攻撃輸送艦) (英語版攻撃輸送艦 沖縄 29 22 グッドヒュー(攻撃輸送艦) (英語版攻撃輸送艦 沖縄 24 119 ヘンライコ(攻撃輸送艦) (英語版攻撃輸送艦 沖縄 49 125 テルフェア攻撃輸送艦) (英語版攻撃輸送艦 沖縄 1 16 サンドバル攻撃輸送艦) (英語版攻撃輸送艦 沖縄 8 26 ラグランジ(攻撃輸送艦) (英語版攻撃輸送艦 沖縄 21 89 レオニダス・メリット リバティ輸送艦 フィリピン合計2回) 58 33 アレキサンダー・メイジャーズ リバティ輸送艦 フィリピン 2 15 ウィリアムAコルター リバティ輸送艦 フィリピン 0 69 マシューPデェディ リバティ輸送艦 フィリピン 61 104 モリソンRウェイト リバティ輸送艦 フィリピン 21 43 ジェレミーMデイリー リバティ輸送艦 フィリピン 106 43 トーマス・ネルソン リバティ輸送艦 フィリピン 168 88 マーカス・デイリー (英語版リバティ輸送艦 フィリピン 203 49 キールVジョンソン リバティ輸送艦 フィリピン 130 9 ジルバート・スチュワート リバティ輸送艦 フィリピン 11 11 アルコア・パイオニア リバティ輸送艦 フィリピン 6 13 ジャン・デ・フカ リバティ輸送艦 フィリピン 2 17 ウィリアム・シャロン リバティ輸送艦 フィリピン 11 11 マリーAリバーモア リバティ輸送艦 沖縄 11 6 ブラウン・ビクトリー ビクトリー輸送艦 沖縄 4 16 ウォルター・コルトン リバティ輸送艦 沖縄 0 76 M・S・チサダネ オランダ軍輸送艦 沖縄 4 9 合計 114隻 2,550名 4,028名

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