飛行場の放棄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 14:49 UTC 版)
その後、沖縄北飛行場は台湾沖航空戦への参加や台湾方面への移駐のための中継地として利用されたものの、同飛行場を拠点とした飛行隊は確認されていない。第32軍は沖縄の各飛行場から行う航空特攻に期待を示し、1945(昭和20)年に入ってから第10方面軍や第6方面軍に対して特攻隊の進出を強く望んだ。第6航空軍では沖縄北飛行場に10~11機からなる特攻隊3~4隊を配属するなどの計画を検討した が、実現しなかった。 1945年3月30日、第32軍は沖縄北・中両飛行場の破壊を命じた。 1945年4月1日、読谷に上陸したアメリカ軍は、占領した沖縄北飛行場で日本軍のロケット推進航空機MXY-7"桜花"を未使用のまま鹵獲した。桜花は自力では離陸せず、一式陸上攻撃機などの母機によって運ばれ、目標に接近すると母機から切り離されロケット推進で飛行、目標に体当たりする。沖縄における桜花の運用状況については実戦での使用を含め確認されていない。
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