島嶼戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 15:03 UTC 版)
太平洋戦争において、陸軍はこれまで念頭においていなかった海洋作戦を実施することになり、研究や訓練が不充分なまま戦争に望んだ。 海軍の戦略思想は来攻する敵部隊を連合艦隊によって要撃し、海上にて撃滅するというものであり、太平洋の島嶼はその敵部隊を捕捉するための偵察拠点と位置づけられていた。このため、対着上陸作戦は真剣に検討されておらず、島嶼に配置された海軍部隊は極めて弱小であった。 しかし、海軍がミッドウェー海戦に敗北し、ガダルカナル島が失陥してブーゲンヒル、マーシャル諸島といった島嶼に陸軍部隊が配置されると、対着上陸作戦が研究が開始され、当初は作戦要務令の河川防御の原則に沿った形でアッツ島を戦ったが、守備隊は敗北、玉砕した。 その後、米軍はソロモン諸島及び東部ニューギニアに対して次々と上陸作戦を開始し、大本営も各地に戦訓収集班や築城研究班を派遣して対上陸作戦の研究に取り組んだ。そして、大本営が1943年(昭和18年)9月30日に絶対国防圏を設定し、大陸から多くの陸軍部隊を中部太平洋に転用したことで、島嶼防衛が脚光を浴び、昭和18年11月に島嶼守備隊戦闘教令を発布した。これは陸軍初めての対着上陸作戦教令であり、作戦要務令の河川防御の原則が水際(上陸場所・降下場所)直接配備、半渡に乗ずる攻撃であったのに対し、島嶼守備隊戦闘教令は水際直接配備、水際撃滅を推奨した。 しかし、その後の絶対国防圏外郭における戦いで守備隊は次々と敗北した。大本営はこれを島嶼守備隊戦闘教令の不徹底によるものと考え、昭和19年4月には島嶼守備隊戦闘教令の説明を配布した。 しかし昭和19年6月のサイパン島の戦いにおいて米軍の徹底した航空爆撃及び昼夜を問わない艦砲射撃の前に水際に集中配備された部隊が次々と攻撃されたことから、大本営は島嶼守備隊戦闘教令を修正する必要を感じ、昭和19年8月に島嶼守備要領を示達した。 これは従来の速戦即決や水際撃滅主義を捨て、水際には一部の部隊の配置し、反射的な攻撃を戒め、米軍の砲爆撃に耐え、主抵抗陣地を通常海岸から適宜後退して選定する、長期持久に適するよう陣地を編成する等島嶼防衛思想を見直したものであった。 この後、大本営は連合軍のノルマンディー上陸作戦やペリリュー島の戦いの戦訓を踏まえて、さらに充実させた上陸防御教令(案)を昭和19年10月に示達した。 硫黄島守備隊は、栗林忠道中将着任前は島嶼守備隊戦闘教令に沿った形で防備が整えられていたが、栗林中将は島嶼守備要領の示達前に沿岸撃滅主義・後退配備構想による守備態勢に変更しており、示達後はその考えに根拠を得た形となった。 しかし、この構想は硫黄島の千鳥飛行場の放棄することとなっていたことから海軍から強い反発をうけた結果、折衷案がとられるなど、現場レベルの徹底は困難な状況であった。
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