特色と限界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 14:31 UTC 版)
以上のようにして整備された捜索隊・捜索連隊は、編制内に装甲戦闘車両と自動車化歩兵を持ち、機械化が遅れていた日本陸軍の中では特異な存在となった。特に装甲車中隊に配備された九二式重装甲車・九四式軽装甲車・九七式軽装甲車は、戦車兵以外の兵種が使うことができた唯一の装甲戦闘車両となり、本来の偵察任務を超えて攻撃任務にまで投入された。また、一応の諸兵科連合部隊となっていることから単独戦闘能力を期待され、師団主力から独立しての運用(挺進)が行われることがしばしばあったが、ノモンハン事件の戦例のように兵力の少なさや軽装甲車の非力さ、補給の限界から苦戦することも多かった。 太平洋戦争緒戦の南方作戦においては、その高い機動力を生かして師団の先頭に立ちビルマ攻略戦の戦例のように活躍することも多かった。しかし、中期以降の島嶼戦では機動力発揮の余地が少なく、軽装甲車の性能限界も明らかだったことから、師団主力が前線へ進出する際に分離されて残留することが多くなった。 そもそも捜索連隊は、野戦における攻勢作戦用の部隊であり、島嶼における防御戦、陣地戦には不向き、不要な部隊であった。これは、騎兵においても同様であり、既に日露戦争の旅順要塞戦においても、第3軍所属師団の騎兵連隊は、要塞戦の期間は抽出され他方面の任務に充当されていた。 そのため不要となった捜索連隊は次々に解隊されて、兵員は戦車部隊に振り替えられていった。太平洋戦争中に新設された師団のほとんどは、歩兵大隊編制の丙師団だったり、連隊編制でも当初より捜索連隊を持たなかったりした。 捜索隊・捜索連隊の数は最大時には40隊を超えていたが、終戦時に残っていたのは23隊のみで、そのうち9隊は戦力喪失状態だった。
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