飛行場付近での戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 05:31 UTC 版)
「ペリリューの戦い」の記事における「飛行場付近での戦い」の解説
翌9月16日、2日目になってようやくアメリカ軍の前線の兵士にも飲料水が届けられたが、燃料用のドラム缶に入れられてきたため、水は錆と油で濁っており、飲んだアメリカ兵の多くが体調不良となった。またアメリカ兵の多くが夜間に切れ間なく撃ちこまれていた日本軍の砲撃で十分に休息が取れていなかった。そんな中で朝にリュパータス師団長ら師団幕僚が戦況把握のためにペリリュー島に上陸したが、戦況を確認すると不機嫌になり、上陸当日に最も苦戦し大損害を被っていた海兵第1連隊連隊長ブラー大佐を「もっと早く前進できんのか?馬鹿者どもが、ブラー、貴様は全力を出して、結果を出せ!俺の言ってることが、わかるだろ、この馬鹿ものが」と激しく罵倒し、第1海兵連隊には現状の膠着状態を打破し前面の高地を攻略、第5海兵連隊には飛行場の攻略、第7海兵連隊には島南端までの制圧を命じた。 海岸に構築されていた各陣地は上陸初日の戦いでアメリカ軍に攻略されていたが、イシマツ陣地は頑強な抵抗を続けていた。イシマツ陣地の後方には、これまでアメリカ軍に痛撃を与えてきた砲兵隊が展開している山岳地帯があり、アメリカ軍は16日中にイシマツ陣地を撃破し、後方の砲兵隊も撃滅するべく戦車10輛を先頭にして前進を開始した。イシマツ陣地からの砲撃要請で、各種野砲や迫撃砲がアメリカ軍の頭上に落下し、多数のアメリカ兵が吹き上げられたが、やがて海上から正確な艦砲射撃の支援が開始されて、ほどなく日本軍の支援砲撃は沈黙してしまった。対戦車火器を失っていたイシマツ陣地は、次第に接近してくるアメリカ軍戦車になす術がなかったが、やがて中隊長の中島正中尉が黄色爆薬を抱えると「よし、俺が片付けてやる」と言い残し、部下将兵が止めるのも聞かずにアメリカ軍戦車に向かって走り出した。中島がそのまま先頭の戦車にそのまま突っ込むと、爆薬の爆発で先頭の戦車は擱座し、中島は粉々に散ってしまった。しかし、日本兵の体当り攻撃を恐れた戦車隊は前進を止めて、イシマツ陣地への突入を諦めた。アメリカ軍は作戦を変えたのか、戦車は陣地から距離をとって、戦車砲や機銃弾を浴びせながら、アメリカ兵がイシマツ陣地に接近してきたので、昨日と同様に両軍が目と鼻の先で手榴弾を投げ合う激しい白兵戦が展開された。しかし、昨日からの激戦で多数の死傷者を出していたイシマツ陣地はもう持ちこたえるのが困難となっており、その様子を見ていた連隊司令部は第2線への撤退命令を出した。撤退命令を受領したイシマツ陣地ではあったが、大量の負傷兵を抱えてアメリカ軍の包囲網を突破するのは不可能であり、動ける負傷兵は自ら小銃で自決し、動けない負傷兵は健常な戦友に「殺ってくれ、友軍の手で殺ってくれ」と頼むという地獄絵図で、生き残った日本兵は涙を流して顔を背けながら、重傷者多数が横たわる壕の中に結束した手榴弾を投げ込み、多くの遺体を陣地に残したまま撤退した。 海岸の各陣地を攻略したアメリカ軍は飛行場に達していたが、飛行場一帯は何もない開けた地形で、唯一、飛行場北方にある半壊した格納庫のみが遮蔽物であり、第5海兵連隊は何もない開けた空間を何百mも突き進まねばならなかった。日本軍は飛行場を見下ろす高地(後に「ブラッディノーズ・リッジ」と呼ばれた)から砲撃してきたが、攻撃開始前に連隊司令部が置かれていた塹壕に砲弾が命中し、第5海兵連隊連隊長バッキ―・ハリス大佐が重傷、参謀も死傷し連隊司令部が大損害を被ってしまった。アメリカ軍は海兵隊の突撃の鉄則である「とにかく止まるな。止まらずにいればそれだけ敵の弾に当たる確率も減るんだ」を実践ししゃにむに飛行場を駆けたが、遮蔽物のない開けた地形で日本軍のあらゆる火器の集中射撃を受けて、その内に砲撃でできた窪みや、飛行場に散乱する撃破された日本軍航空機、撃墜されたアメリカ軍航空機の残骸に身を隠し釘付けとなった。連隊にはガダルカナルの戦いやグロスター岬上陸戦を戦った古参の兵士も多かったが、日本軍の激しい攻撃に容易に進撃できず、多数の死傷者を出した。古参兵らは「このペリリュー島の飛行場を巡る戦いが、太平洋戦争中で最悪の経験だった」と後に語っている。その後、飛行場攻撃には戦車隊と第1海兵連隊が加わったが、それまでに飛行場で無謀な突撃を繰り返していた第5海兵連隊の第1大隊は戦闘能力を失っていた。また第1海兵連隊は前日に500名の死傷者を出していたが、この日もさらに500名の死傷者を出し、人的損失は連隊の33%にも達することとなった。通常であれば戦力の15%を失えば最前線からは撤退させるのであるが、予備兵力を使い果たした第1海兵師団にその余裕はなかった。飛行場は援軍の到着もあり、日没までにはアメリカ軍の手に落ちた。 第7海兵連隊が攻略に向かった島の南部には、地形的には平坦地で日本軍の隠れられる場所はなさそうに見えたが、巧妙に構築された日本軍の陣地やトーチカ多数が待ち構えていた。第7海兵連隊は艦砲射撃や艦載機による空爆、特に新兵器となるナパーム弾による空爆の支援を受け、トーチカを着実に攻略しながら、前進を続け正午までには島の南端に達した。しかしそのころには気温は40 ℃を超えており、乾きがアメリカ兵を苦しめることとなった。前線に飲料水を運搬していた兵を日本軍の狙撃兵が次々と狙撃し、前線に飲料水がなかなか補給されなかった。第3大隊などは「飲料水の欠乏により兵士は干上がっている」と緊急電文を打ち、乾きのために作戦行動が困難となったため、補給がくるまで陣地を構築し待機せざるを得なくなった。しかし、南部地区では日本軍は地の利を得られなかったため、第7海兵連隊は他の地区と比較すれば順調に日本軍を掃討することができた。4日間に渡る島南部地区の戦闘で日本軍戦死者は2,609名にも達したが、第7海兵連隊の死傷者は497名だった。上陸以来の死傷者の続出で激昂していた海兵隊員らは、降参する日本兵も射殺したため、捕虜は1名もいなかった。 アメリカ軍は日本軍の巧妙な防御戦術を見て、日本軍は緻密に連絡を取り合っており、その手段は伝書鳩と考えていた。そのため、各大隊には狩猟用のショットガンが配られ、ペリリュー島を飛ぶ鳥は鳩でなくとも片っ端からショットガンで撃ち落とされた。しかし実際は日本軍はペリリュー島で伝書鳩は使用しておらず、ペリリュー島の鳥たちにとってはとんだとばっちりであった。
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