飛行場建設と住民の強制収容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 15:14 UTC 版)
「本部飛行場」の記事における「飛行場建設と住民の強制収容」の解説
1945年6月から7月にかけ、本部半島で米軍によって本部飛行場や本部補助飛行場の建設が開始されると、本部半島の住民は名護市辺野古にあった大浦崎収容所などに送りこまれた。そこは数ある米軍が運営した民間人収容所でも最も粗悪な運営であったといわれている収容所で、また後にキャンプ・シュワブ基地となった場所である。 本部半島から辺野古崎への住民移動について、宣教師の息子として鳥取に生まれ、沖縄戦で軍医を務め、後にハーバードとシカゴ大学で解剖学と細胞学の権威となったヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐は次のように記している。 「 忘れてはならないのは、本部半島の北部や西部では戦禍はそれほどひどくなく、多くの住居が破壊を免れたが、アメリカ軍の占領後に強制移動させられたことである。ここでは、四月上旬から中旬にかけてアメリカ軍が浸入してくると、ほとんどの住民は村を捨て、山へ逃げた。二、三日経つと、アメリカ軍に対する恐怖心は消え、自分の住居に戻ってきた。アメリカ軍がすぐ側で野営しているにもかかわらず、住民は平常の生活に戻り、農耕収穫に励んでいた。二か月半もの間、戦闘の始まる前と同じように平和に暮らすことができた唯一の幸運な共同体であった。だが、日本軍の組織的抵抗が終了すると、アメリカ軍は休養のため、本部半島に移動してきた。そのため、住民を移動させることになった。本部半島の住民を受け入れる施設は全く用意されていなかった。約二万人の住民がトラックで東海岸に運ばれ、何もない原野に放り出された。数日してようやく仮の宿舎が与えられるという始末だった。 」 —ヘンリー・スタンリー・ベネット(The Impact of Invasion and Occupation on the Civilians of Okinawa | Proceedings - February 1946 Vol. 72/2/516 (訳 沖縄タイムス / 上原正稔著『沖縄戦トップシークレット』所収)より)
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