本部補助飛行場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 15:14 UTC 版)
米軍は伊江島と本部半島に多くの米軍基地を建設した。 沖縄返還協定での名称 旧名称 備考 FAC6005 伊江島補助飛行場 伊江島補助飛行場 - 上本部飛行場 本部飛行場 桃原飛行場 返還 - 本部補助飛行場 ビースリー・フィールド C表: 返還 - 本部採石所 C表: 返還 1945年7月9日の段階で、米軍は基幹となる各種飛行場のほかに小さなカブ滑走路 (cub airstrip) を20あまりも建設し運用を始めていた。本部補助飛行場はそのうちの一つとみられ、ビースリー・フィールドの小飛行場とよばれていた。美ら海水族館の北側にある備瀬フクギ並木の東側に建設された。米軍は住民を田井等収容所や大浦崎収容所に収容し、その間に小飛行場を建設し運用していた。 その年の11月下旬に田井等や大浦湾の収容所から解放された備瀬の住民は、それでもすぐには元の住居に戻ることは許されていなかった。多くの住民が2-3世帯に一つの米軍テントの集団暮らしを余儀なくされた。備瀬誌によると「タナージビラから高良原に下りる道路の左右はもとより高良原一帯を埋め、さらにナガバタキーからガジーマンに至るまで、見渡す限りテントが張り詰められ」ている状態であり、食糧事情は大浦崎収容所時代と変わらない状態であった。 「 そのころは配給物資もわずかであったので、それだけでは飢えを凌ぐことができず、レイウムを掘ってきてウムニーを炊いたり、パルビラを摘んで雑炊を炊くなど食糧事情は大浦崎なみに困窮していた。従って大人も子供たちも朝から晩までそれこそ飢えた犬のように食糧探しに余念がなかった。 」 —仲田栄松編 (『備瀬史』1990年より) 現在は農作地になっているが、固いコンクリートで舗装された滑走路をはがすのに5年、土を畑にもどすのに10年かかり、また石油などが漏れ汚染された土地は農地として回復することはできなかったという。
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