本部町の住民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 16:41 UTC 版)
本部半島は、中南部の「耕す戦法」とまでいわれた地形が変わるほどの熾烈な砲火を受けることはなかったが、国頭支隊の敗残兵となった宇土部隊ら日本の敗残兵と米兵とのあいだに巻き込まれ犠牲となる住民も少なくなかった。6月になると、本部半島で上本部飛行場や本部補助飛行場の土地接収と建設が始まり、住民は強制的に東海岸の大浦崎収容所などに移送された。食糧はなく、また食糧をもとめて動けば性暴力の標的とされることも多かった。 「 久志には七、八か月もいた。はじめは五〇人ずつ、あるいは百人ずっ大きなテントに収容された。中には敷物もなく、土の上に寝ろということであった。それで人々は、とりあえず草を刈りて来て敷き、その上に住んでいた。文字通り家畜同然の生活であった。だが、やがて私たちは、山から材木を切り出し茅を刈り集めて、自力で小屋を作って住まうようになった。食糧もまた惨めであった。すでに区長も任命されており、配給主任を通じて一人何合、何個というふうに支給されてはいたものの、それだけではなんとしても足りず、誰もが栄養失調気味であった。 」 —本部町 米軍上陸(沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)より) 収容所から解放されても、収容されていたあいだに米軍基地となった土地には帰村することができず、ながらく米軍のテントで集団生活を余儀なくされた。その当時の暮らしぶりを『備瀬史』は「食糧事情は大浦崎なみに困窮していた」と記している。
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