沖縄戦と大浦崎収容所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 05:29 UTC 版)
1945年4月5日、米軍が辺野古区長崎原に駐留。6月には米軍が捕らえた伊江村、今帰仁村、本部町の住民を強制収容するための大浦崎収容所を設営した。最大で2万5千人が収容され、戦傷や飢餓とマラリヤなどの病気で多くの命が奪われた北西部の最も劣悪な収容所のひとつであった。移送された住民は、ほとんど立木も無い不毛に等しい荒地におかれ、米軍支給のテントも十分ではなく「食料飢饉は深刻で、海に出て海藻を食べ、山へ行って食えそうな木の葉や草の葉を手あたり次第につみ取って食べた」状態であった。大浦崎での住民の強制収容は一年間続いた。その後、宜野座村側の収容所共同墓地(シブタ共同墓地)では1980年代に大がかりな遺骨収集も行われたが、大浦崎収容所に関しては、収容所消滅から10年後の1956年に再びキャンプ・シュワブとして再接収されたため、墓所の特定と遺骨収集は極めて困難な状態に置かれている。沖縄県平和祈念資料館の資料では、大浦崎に関連する犠牲者は304人ほど確認されているが、墓所の確認はできていない。
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