沖縄戦における実戦運用と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/08/16 15:37 UTC 版)
「防衛隊」の記事における「沖縄戦における実戦運用と評価」の解説
沖縄戦では防衛召集兵22000-25000人のうち、約13000人が戦死した。成人を中心とした防衛隊は、同じ沖縄戦に参加した中等学校の男子生徒による鉄血勤皇隊や、ひめゆり学徒隊などの女子生徒動員に比べて、知名度が低い。しかし、動員数でも戦死者数でもこれらを上回っている。 沖縄戦での防衛隊はアメリカ軍上陸まで軍事訓練などはほとんどなく、武器も非常に不足していた。防衛召集により部隊配属後、基本的には軍服が支給されたが、ワラジ履きの者もいた。雨具の不足で蓑と笠を身につけて作業することもあり、自嘲して「ミノカサ部隊」と称した。銃器等の支給も限られており、支給された竹槍を研く姿を「ボーヒータイ(棒兵隊)」と自嘲した。兵役経験のない未教育者がほとんどであり、受け入れ部隊側では最低限の能力付与のため教育に苦心した。しかし、大本営が戦略変更するたびに陣地変更を余儀なくされ、正規兵ですら飛行場建設や陣地構築の土木作業に明け暮れる沖縄の第32軍において、防衛隊は満足な教育訓練を受けることもなく土木作業をするうちにアメリカ軍の上陸を迎える結果になった。土木等の戦闘補助任務に終始して、教育を全く受けられなかった者もいる。福地曠昭は、令状もなく召集されて教育訓練をまったく受けず、数個の手榴弾と竹槍を渡されただけの防衛隊員は、なんら民間人と変わるものではなかったと評している。 『沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料』によれば、上述のとおり装備も訓練も不十分な状態の防衛召集者は、例外的に素質優秀な者を戦闘員の補充に回し、基本的には土木作業などに投入され、直接の戦力にはあまりならなかったという。ただ、ゲリラ戦目的の遊撃隊に配属されるなど、従軍者の証言によれば直接的な戦闘任務にもしばしば参加し、あるいは直接戦闘に参加しないまでも最前線の部隊に同行して戦闘補助任務を担っていたとみられる。軍の主力に代わり上陸地点での最前線の迎撃に充てられた特設第1連隊(約半数が防衛召集者)のような例もある。損害状況について『沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料』は、「戦死者の多くは戦闘末期に南部で無意味に右往左往している間に、敵に遭遇し、或いは、艦砲射撃の犠牲となって発生した。教育不十分・素質不良の人員が多く、経験や能力の不足から部隊組織が一度崩れると再建不能に陥ってしまう傾向があった。」と分析する。 防衛召集されて軍人となっても家族が心配で、夜間の無断行動で食糧を家族へ届ける者や、部隊が損害を受けて組織的行動が難しくなると解散命令のないまま家族のところへ帰ってしまう者、生き残るために意図的に捕虜になる者が散見された。敗北が明らかだと考えて、死ぬのは惜しいと脱走する者も多かった。本土出身者への反発で、本土出身の兵に集団で暴力をふるった例もあった。 沖縄戦における海軍部隊指揮官だった大田実海軍中将は、「私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず進んで防衛召集に応募した」と海軍次官あての決別電報で言及している。
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