沖縄戦とシービー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 08:25 UTC 版)
「キャンプ・シールズ」の記事における「沖縄戦とシービー」の解説
1945年4月1日、読谷渡具知 (Hagushi) から陸軍と海兵隊が上陸したが、上陸のための浮橋や沿岸のボートを設置したのは海軍機動建設第130大隊であり、また上陸部隊とともに第44と第130大隊のシービーズが上陸した。米軍は前線で日本軍と激しい戦闘を繰り広げながら基地建設を進めていった。まさにシービーズの「我々は建築することで戦う」“We Build, We Fight” が典型的に展開された。 上陸の2日後には大隊は日本軍が自壊させた嘉手納と読谷の飛行場の修復に取り掛かり、4月4日には使用可能にさせた。 シービーは読谷補助飛行場、嘉手納基地、金武飛行場、泡瀬飛行場、ボーロー飛行場と与那原飛行場に次々新しい滑走路を構築した。勝連半島では第7大隊が水上飛行場を建設した。泡瀬飛行場では、沖縄の豊かな水田を、オランダの干拓地工学の技術をつかい、運河を掘って水田を排水し、海を抑えるために潮門を作り、珊瑚の採石場からトラックの列を横行させ、水田の土壌を石灰岩で舗装した。 また沖縄戦では「魔法の箱」(magic box) という海軍の発明が大いに活躍した。第70大隊と第128大隊のシービーは、100近くのポンツーンとよばれる浮橋 (pontoon) を配置し、これらを鋼鉄で連結させて戦車揚陸艦 LST とつながる桟橋とした。魔法の箱の桟橋は、特に雨季とその泥で米軍を難渋させ道路機能が著しく低下した5月には、魔法の箱のはしけと桟橋が不可欠となった。3か月の沖縄戦で、200万トン近くの弾薬と物資が「魔法の箱」とよばれる軽量のはしけで運ばれた。シービーは1945年の春と夏に沖縄に4,000フィート以上の埠頭を建設した。 戦闘支援がいったん愁訴すると、次にシービーは広大な貯蔵ヤードの建設に集中した。ダンプ、建物、港湾施設、修理店、病院、宿舎、嘉手納のロータリー。沖縄の55,000人のシービーは、戦争中派兵された最大のシービーであり、11個以上の海軍建設連隊と4個の海軍建設旅団(第8、第10、第11、第12)が沖縄に任務を負った。 6月26日、海軍建設第9大隊が沖縄に到着し、4車線の珊瑚高速道路、航空機修理工場、岸壁、海上鉄道を建設した。 沖縄戦を生きのびた住民が収容所に収容されている一年間に、急速に沖縄島はその姿を変えた。収容所を出て見違えるほど整地された道路整備に驚いただけではなく、多数の基地が林立し、多くの住民が帰るべき生まれ里を失った。
※この「沖縄戦とシービー」の解説は、「キャンプ・シールズ」の解説の一部です。
「沖縄戦とシービー」を含む「キャンプ・シールズ」の記事については、「キャンプ・シールズ」の概要を参照ください。
- 沖縄戦とシービーのページへのリンク