沖縄戦での編成経過
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太平洋戦争時の沖縄では、在郷軍人会防衛隊の組織と22000-25000人の防衛召集が実施され、防衛隊と呼ばれた。 太平洋戦争勃発前の沖縄県には、徴兵事務を管理する沖縄連隊区司令部(第6師団管轄)が置かれていた程度で、ほとんど日本軍部隊が展開していなかった。荒木貞夫第6師団長など無防備な状況を危惧する者もあり、1933年(昭和8年)1月に八重山列島で、荒木や在郷軍人会分会長の熱意により在郷軍人を主力とする義勇隊が組織された。しかし、沖縄全島へ広まることは無かった。1934年(昭和9年)には連隊区司令官石井虎雄大佐が、在郷軍人会を基幹として中等学校生徒を加えた義勇隊31個中隊(銃3560丁)の創設を私案として具申したが、これも実現しなかった。 太平洋戦争勃発後、沖縄では、1944年7月に全国に先駆けて在郷軍人会防衛隊が組織された。7月10日頃に在郷軍人会沖縄支部で設立され、各市町村単位で中隊を編成、第32軍の援助下で訓練などを行った。防衛召集本格化など根こそぎ動員により構成員である在郷軍人が減ったが、防衛召集者と混然となった状態で戦力化の努力も続けられ、正規軍部隊の有力な補助として活用された。 一方、沖縄での防衛召集は、1944年1-3月に始まり、本格的なものは同年10月以降3次に分かれて進行した。記録上で最も早いのは、1944年1月の石垣島での特設警備隊の一種である特設警備中隊2個の編成で、3月にも沖縄本島や石垣島など各地で特設警備中隊が編成された。同年6月に飛行場建設を目的に特設警備工兵隊が編成され、同年10月以降の戦闘部隊も投入した飛行場建設促進の中でさらなる防衛召集が進んだ。第3次は1945年1-3月に関東地方への機動部隊空襲(ジャンボリー作戦)により情勢が緊迫する中で行われた大量召集で、沖縄守備隊から除かれた第9師団の穴埋めを目的とした戦闘要員としての召集であった。1944年7月頃までは、増援部隊の沖縄到着と交代で召集解除されるなど緊急時に限った制度に沿う運用だったが、末期には根こそぎ動員状態であった。 沖縄での防衛召集の実態は、住民の証言などによると末期には本来の防衛召集制度から大きく離れた面も見られた。実戦では、在郷軍人会防衛隊と混同されつつ、ゲリラ戦目的の遊撃隊の編成に充てられるなど警備を越えた戦闘任務へしばしば投入された。手続き的にも召集令状や召集待命令状の交付が省略されることがあり、軍からの通牒を受けた役場が村長などの名で通知を発するだけで代用されたり、召集権限を持たないはずの連隊長級未満の現地部隊指揮官が略式命令で召集を行ったりしていた。口頭の命令だけで召集された者もいる。召集対象者も、本来の対象年齢を外れて16歳や45歳以上の男性まで防衛召集名目で集められている。階級を付与しないまま部隊と行動したり、いきなり一等兵として扱った例も見られた。
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