沖縄戦とベイリー橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:37 UTC 版)
米軍が開発したベイリー橋は沖縄戦でその大きな成果を発揮した。日本軍は想定された米軍の上陸において、米軍を無血上陸させたうえで、少しでも本土決戦を遅らせるため米軍の足を沖縄に引きとめるあらゆる策を講じていた。そのため飛行場建設と同時に、沖縄中部の地形を利用した数々の反斜面陣地の構築を急ぎ、また上陸直前には、米軍の進行を遅らせるために、木を切り倒して道路を塞ぎ橋梁に爆薬を仕掛け爆破させた。国家総動員法の中、道路や橋の破壊工作を実行するするよう命じられたのは、沖縄に送られた陸軍中野学校の秘密部隊 (遊撃隊) に召集された地元の十代半ば (14歳から17歳) の「護郷隊」とよばれる少年兵たちだった。 「 米軍が上陸する前に橋を壊したのは全部僕ら。橋脚に爆薬を撒いて火を点けて、導火線一cm一秒だから、泳いで逃げて行く時間を計算して。またこーんな大きな松を倒したり。 」 —元護郷隊の証言(三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史』 集英社 (2020年)より) 米軍の上陸が目前にせまると、護郷隊は計画通り次々と橋を爆破していったが、爆破後も橋を監視していた彼らがそこで目撃したことは一生心に刻まれた傷になった。馬や牛や荷台に荷物をのせた大勢の避難民は、壊された橋によって牛馬や荷物を放り出し、身一つで年寄を支えながら冷たい川を渡らなければならなかった。いっぽう上陸した米軍は、彼らの目の前で驚くべき進度で破壊された橋を修復し、構築していった。ベイリー橋である。 「 護郷隊はみんな橋を壊したり、松並木を倒してアメリカ軍を通さないようにしたんだが、アメリカは橋もすぐ架けるし、ブルドーザーで松の木もすぐどける。石川の橋と伊芸の橋は先輩が壊したが、アメリカはすぐに鉄橋架けてブルドーザーを通していた。結局は馬車で避難する住民を苦しめただけだった。 」 —元護郷隊の証言(三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史』 集英社 (2020年)より) 沖縄戦でベイリー橋はポンツーンと共に米軍の圧倒的な兵站を支えた。単純に規格化されマニュアル化されたベイリー橋の利点は、たとえベイリー橋建設の経験が一度もない工兵隊であっても短時間で構築可能であることだった。 1945年4月18日、まさに主戦ラインのただなかにある牧港の入り江に計4つのベイリーとポンツーンを構築するべく組み立てユニットがトラックで搬送された。沖縄に来るまで南洋の戦線にいた陸軍102-d工兵戦闘大隊 (ECB) は、この新技術にまったく経験がなく、また戦闘を避けながら夜中に構築しなければならなかった。唯一、チュニジアでいくつかのベイリー橋の建設に関わった経験のある一人の将校が指揮をとり、工兵部隊は暗闇の中で静かに途切れることなく組み立てられ、4月19日午前0時までに128ヤード (117m) の歩道橋を完成させた。
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