沖縄戦が戦争に及ぼした影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 17:43 UTC 版)
「沖縄戦」の記事における「沖縄戦が戦争に及ぼした影響」の解説
上記の通り、日本側からは本土決戦の時間稼ぎとの意味合い、アメリカ側からは日本本土への進攻の前哨陣地確保が目的であった沖縄戦であったが、日米が大戦力を投入し互いに大損害を被る事となった為、沖縄戦の決着が着く頃には両陣営に厭戦気分が高まり、終戦に向けた具体的な動きを後押しする事となった。日本側は上記の通り沖縄戦は本土決戦での時間稼ぎであったとしながらも、特に航空戦力の総力を結集し決戦を挑みながら敗北した衝撃は大きかった。 日本の指導層の内で、本土決戦を声高に叫ぶ陸軍ら主戦派に対して、終戦を画策していた講和派も『一撃講和』(連合軍に決戦を挑み大損害を与えた後に有利な講和を結ぼうという考え)として沖縄戦に大きな期待を寄せていたが、その期待が破れた事により『一撃講和』はもはや不可能という事を痛感させられ、早急な終戦に向けた動きを加速させることとなった。 終戦時の首相であった鈴木貫太郎首相も沖縄戦で勝機を掴む事を期待し、4月26日には首相官邸に陸海軍首脳部を召集し「今は何があっても沖縄の作戦を成功させる。(中略)沖縄の戦さに勝ってこそ外交政策も有効に行われるというものです」と檄を飛ばしていたが、その後、第32軍の総攻撃の失敗などで沖縄戦の敗勢が明らかになったこと、またナチス・ドイツの降伏もあってもはや戦争継続は困難であると認識し、6月8日の最高戦争指導会議で、公式の場では日本の首相としては初めて、ソ連を仲介とした連合国との講和を口にしている。しかし、この時は陸軍の抵抗により一旦は棚上げされ、水面下での動きを余儀なくされることとなった。 昭和天皇も『一撃講和』として沖縄戦に大きな期待を寄せていたが、奏上される沖縄の戦況が悪化する一方の事や、梅津参謀総長や長谷川清海軍大将らから報告された陸海軍の実情を聞くにつれ、現実認識は大きく崩れていた。 鈴木首相同様に『一撃講和』が困難と悟った昭和天皇は、6月9日に講和派木戸幸一内大臣の「時局収拾対策試案」として上奏されたソ連を仲介とした講和工作を了承した。沖縄での日本軍の組織的な抵抗が終わる前日の6月22日に、天皇臨席の許に開催された御前会議において、会議冒頭に昭和天皇自ら戦争終結実現に向けて具体的に動くように指示を行った。 強硬な本土決戦派であった陸軍も漸く同意し、政府の正式な方針として、終戦に向けた動きが具体化していく事となった。 昭和天皇は戦後に沖縄戦の敗因とその影響について以下の通りに回想している。 之は陸海作戦の不一致にあると思ふ。沖縄は本当は三ケ師団で守るべき所で、私も心配した。梅津は初め二ケ師団で充分と思ってゐたが、後で兵力不足を感じ一ケ師団を増援に送り度いと思った時には巳に輸送の方法が立たぬといふ状況であった。所謂特攻作戦も行つたが、天候が悪く、弾薬はなく、飛行機も良いものはなく、たとへ天候が幸ひしても、駄目だつたのではないかと思ふ。特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある、敢て之をせざるを得ざる処に無理があつた。海軍は「レイテ」で艦隊の殆んど全部を失ったので、とっておきの大和をこの際出動させた。之も飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した。陸軍が決戦を延ばしてゐるのに、海軍では捨鉢の決戦に出動し、作戦不一致、全く馬鹿馬鹿しい戦闘であった。詳い事は作戦記録に譲るが、私は之が最后の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏も亦已むを得ぬと思った。 — 昭和天皇独白録 以上の様に沖縄戦の敗戦は日本に『一撃講和』は幻影にしか過ぎない事を知らしめたが、ソ連はヤルタの密約で既に対日参戦を決めており、ソ連を仲介とした講和は実現せず、日本が降伏するまでには、なお8月の広島と長崎への原子爆弾投下、ソ連対日参戦などの悲劇を経なければならなかった。 勝者であったアメリカ軍は、当初の計画は1か月で沖縄を攻略する計画であったのに対し、莫大な物量を投入しながら実際にはその3倍の期間を要し予想外の大損害を被る事になった。(詳細は#戦闘経過を参照)しかも、その人的損失はドイツ軍を相手にした最大の激戦の1つバルジの戦いの損失にも匹敵したが、バルジのドイツ軍は13個の歩兵師団と7個の装甲師団の約40万人の兵力であったのに対して、沖縄の日本軍はたった3個師団にも満たない約10万人の兵力に過ぎず、沖縄戦での人的損失が日本の抵抗の激しさを示すものであれば、日本本土侵攻にどれほどの犠牲を伴うのかアメリカの指導部内に不安が蔓延することとなった。 その為、日本本土上陸作戦を強硬に主張し、ハリー・S・トルーマン大統領にダウンフォール作戦を承認させていたアメリカ陸軍も、 硫黄島や沖縄の戦績を踏まえてダウンフォール作戦での推定死傷者をシミュレーションした結果、最大で400万名の死傷者が出るとの結果が出るなど甚大な損害が予想されたために、トルーマンが「沖縄戦の二の舞いになるような本土攻略はしたくない」と日本本土侵攻に躊躇し、強硬派のヘンリー・スティムソン陸軍長官らが軟化するなど、講和推進派のジョセフ・グルー国務次官らが巻き返しを図るきっかけとなった。 スティムソンはグルーとの議論の後に、かつて訪れた日本本土の記憶をたどりながら「(日本列島は)硫黄島や沖縄で見られたような最後の望みをかけた防御がやりやすく、戦車による機動戦はフィリピンやドイツより困難」であり「日本人は極めて愛国心が強く、侵攻軍を撃退するためには狂信的な抵抗の呼びかけにすぐ応じるのは間違いなく、我々が侵攻を開始すれば、ドイツよりさらに苛烈な最後の戦いを経験することを覚悟せねばならない」と考えた。そこで「硫黄島や沖縄のような大量の流血から我々を救うためには、日本人の国家理論の下では唯一の威厳の源」である天皇を利用するため、対日侵攻に代わる無条件降伏に相当する「何らかの代案」が必要であると判断し、ジェームズ・F・バーンズ国務長官など関係者に説いて回った。そしてスティムソンが纏めた『覚書』はこの後に日本への降伏勧告となるポツダム宣言の原案に組み込まれる事となり、終戦に向けての動きが加速する事となった。 それら沖縄戦での大損害を参考にした被害想定は、アメリカにおけるアジア史の権威イアン・ガウ教授のように「沖縄戦はアメリカ軍と日本軍の交戦の中でもっとも苛烈なものであった、沖縄の占領に莫大な人的、物的代価を払ったことが、原子爆弾の使用に関する決定に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもない事である。アメリカの指導者たちは、アメリカ軍が日本本土に接近するにつれて人的損失が激増する事に疑問をもってはいなかった。沖縄での経験から、アメリカの指導者たちは日本本土侵攻の代価は高すぎて払えない事を確信していたのである。」とアメリカによる日本への原子爆弾投下の判断の大きな要因となったと指摘されることも多い。
※この「沖縄戦が戦争に及ぼした影響」の解説は、「沖縄戦」の解説の一部です。
「沖縄戦が戦争に及ぼした影響」を含む「沖縄戦」の記事については、「沖縄戦」の概要を参照ください。
- 沖縄戦が戦争に及ぼした影響のページへのリンク