総攻撃の失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 10:13 UTC 版)
順調に進撃していた連合軍は、作戦修正以降、第32軍が精魂込めて構築した堅陣からの激しい抵抗に突き当たると、殆ど進撃できずに多大な損害を被った。特に嘉数高地を巡る激戦では(嘉数の戦い)、巧妙に構築された日本軍の対戦車陣地に連合軍が1日で22輌の戦車を撃破されるなど、全力を挙げて攻撃してきた連合軍を何度も撃退している。ここまでは第32軍の作戦構想通りの展開となっていたが、航空作戦優先主義の大本営や32軍を管轄する第10方面軍や海軍から「消極的」であるとその作戦方針を批判され、飛行場を奪還の督促が何度もなされている。昭和天皇も戦局を上奏した梅津美治郎参謀総長に対し「沖縄作戦が不利に推移すれば今後の戦局は甚だ憂うべきものがあるばかりでなく、陸海軍に対する国民の信頼も消滅する。現地軍はなぜ攻勢に出ないのか、兵力が不足なのか、それなら増援部隊を逆上陸させてはどうか」と御下問している。特に海軍の連合艦隊は、アメリカ軍の機動部隊を撃退できると考えており、それまでには奪還してほしいと切実な要請をしてきている。その援護のために菊水作戦を発動し、大量の特攻機を出撃させると同時に、戦艦大和を主力とする第二艦隊を沖縄に海上特攻をさせると通知してきたため、牛島は中止してほしいと打電したが、決行されてアメリカ軍航空機の攻撃により大和は撃沈されてしまった。これらの攻勢督促は牛島ら第32軍に大きな圧力としてのしかかっていた。 4月29日、中央からの督促に一番心を動かされていた参謀長の長が参謀を召集すると、戦力がまだ十分に残っている今のうちに攻勢をかけ運命の打開をはかるべきと意見し、他の参謀の同意を求めた。参謀の中で八原だけが、劣勢な我が軍が攻勢に転じれば5倍以上の損害を受けて必ず失敗する。無謀な攻撃である。今まで通り戦略持久作戦を継続し、本土決戦までの時間を稼ぐべきと反対したが、他の参謀は長の意見に賛成したため、5月4日に第32軍の総力を挙げて総攻撃を行うことに決定した。八原は不承不承、総攻撃計画書を薬丸、長野両参謀と作成したが、長への抵抗の意味も込めて、本来は責任者の八原がやるべき牛島への作戦計画書の提出を長野に代理でさせている。普段は参謀らに口出しをしない牛島であったが、この時ばかりは八原を呼びつけると「貴官は攻勢の議論が出るたびに反対し、軍司令官が攻勢を決意してからでも、なんとも沈鬱な表情で、32軍司令部全体の空気を暗くしている。すでに32軍は、運命をかけて攻勢に決定したのである。かかる重大な時期に、高級参謀たる者が、その気勢をそぐようなことがあってはならない」と叱責している。 5月4日からの日本軍の総攻撃は八原の予想通り、アメリカ軍の圧倒的な火力の前に大失敗に終わり、温存していた第24師団主力が壊滅状態に陥るなど戦死者5,000名以上の大損害を被った。また軍砲兵も1/3まで戦力が激減し、今後の作戦計画を大きく狂わせた。連合軍の死傷者は、1,066名であり、損害の比率も八原の予想通りとなった。攻勢2日目の5月5日に牛島は八原を呼ぶと「八原大佐、貴官の予言通り、攻撃は失敗した。貴官の判断は正しい。」「濫りに玉砕することは予の本意ではない。予が命を受けて、東京を出発するに当り、陸軍大臣、参謀総長は軽々に玉砕してはならぬと申された」「今後は、一切貴官に任せる。予の方針に従い、思う存分自由にやってくれ」と今後は八原に作戦指揮を任せると伝えている。八原は今更何をという怒りの気持ちも湧きあがったが、牛島の素直な人格に打たれて、思いを新たにしている。
※この「総攻撃の失敗」の解説は、「牛島満」の解説の一部です。
「総攻撃の失敗」を含む「牛島満」の記事については、「牛島満」の概要を参照ください。
- 総攻撃の失敗のページへのリンク